緒方貞子さんの生涯と
1930年頃/幼少期
中央に座るのが緒方さんの曾祖父で総理大臣も務めた犬養毅。「貞子」の命名は曾祖父によるものでした。
(最前列の女の子が緒方さん)
1951年/大学年鑑
大学年鑑のプロフィールには、 学生自治会長、奉仕部、テニス部、 英語演劇部などが記されています。
1948年頃/学生自治会
大学開設と同時に学生自治会が発足。役員は選挙で選ばれ、毎週全員参加で英語による会議を開催。
1951年/氷川丸にて
米国留学のため横浜から氷川丸に 乗船してサンフランシスコヘ向かう緒方さん。
(緒方さんは左から2番目)
1951年~/米国留学時代
ワシントンのジョージタウン大学留学時代。大学院修士課程では外交史や国際関係論を学びました。
1968年/国連総会出発時
日本政府代表団の一員として国連総会出席のため、NYに向かう緒方さんを送り出すご両親と子どもたち。
1991年/国連難民高等弁務官就任
第8代国連難民高等弁務官に就任。人道主義に徹した難民保護に尽力しました。
©UNHCR/E.B,ismd
1995年/難民キャンプ訪問
コンゴ民主共和国の難民キャンプにて。隣国ルワンダから逃れてきた難民に迎えられる緒方さん。
© UNHCR/Panos Moumtzis 1995年2月
2000年/国連難民高等弁務官時代
中央はネルソン・マンデラ氏。
左から2番目は現国連難民高等弁務官のフィリッポ・グランディ氏
2001年/聖心会創立200周年記念講演会
「連帯感のある世界をどうやってつくったらいいか、私共に与えられた一番大きな課題です」と述べました。
2007年/JICA理事長再任
「日本が試される年になる。 リーダーシップを発揮しなければ」と意欲を見せました。
(UNHCRの同僚と80歳のバースデイを祝う)
国連難民高等弁務官就任から
JICA理事長退任
緒方貞子さんの人生を年表にまとめましたが、事柄のみの紹介となっています。
「緒方さんがその時、どのようなことを思ったのか?」様々な資料から集めましたので、
あわせてご紹介したいと思います。
「緒方さんがその時、どのようなことを思ったのか?」様々な資料から集めましたので、
あわせてご紹介したいと思います。
1991年2月
国連難民高等弁務官に就任
「国連総会で第8代国連難民高等弁務官に選出された私は、女性として、日本人として、また学者出身者としても初めての難民高等弁務官であった」「昼夜を分かたず、戦時にも平時にも、人道援助の最前線に立つ、果敢で献身的な職員によって成り立つUNHCRの舵取りを、光栄にも私は任されたのである」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』19頁
1991年4月
イラク・クルド難民問題のため現地を視察、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)として前例のない国内避難民の保護を決断する。
「国境内では任務を行使しないという法的命令を守り、越境を阻止されている人々への援助を控えるべきなのか、それとも、より現実的な人道的立場から、できる限り援助の手を広げるべきなのか?/私は現実的な人道的方針をとることとした。UNHCRのマンデートについての問題は、難民の生命を守るという基本原則にのっとって解釈されるべきであると信じたからである」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』50頁
1992年11月
安保理で旧ユーゴにおける人道問題について報告を行う。
「私にとって、それは人道上の「ルビコン川」ともいえる一線を越えるのに等しかった。それまで伝統的に守りつづけられてきた中立と公平の基本原則とは、政治の関与から明確に距離を置くことを意味する、と人道援助社会では解釈されていた。それゆえ安保理で報告をした人道機関の長はこれまで一人もいなかったのである。しかし、私は安保理の理解と政治的支援を得るために、この機会を生かそうと決意した。難民も安保理に支援され、あらゆる脅威や妨害から守られることを期待しており、私も国連が平和維持部隊を一刻も早く配置するよう願っていたからであった」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』93頁
1993年2月
度重なる救援活動への妨害に対し、サラエヴォヘの援助物資輸送の一時停止を決断、状況を改善に導く。
「私はきわめて厳しい言葉を用いて、「われわれの数々の努力を徒労に終わらせようとしている」全勢力の政治指導者を非難したが、「政治指導者側が援助の再開を要望し、輸送隊の通行を妨害しないと保証するなら、即座に再開する」と結んだ。/高等弁務官として10年間に下した決断のうち、あれほど大騒ぎを引き起こしたものは後にも先にもなかった」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』103頁
1997年1月
ルワンダの再建のため、ルワンダ女性イニシアティヴを開始。
「一般的に紛争後の社会では、女性が家計を支える世帯が圧倒的に多い。ルワンダの場合、少女が数人の弟や妹の面倒を見ながら一家を支えている家庭が多かった。女性が再定住し、国の経済的・社会的・文化的活動に参加していくことが、この国の発展の鍵になる、と私は信じた」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』304-305頁
「女性イニシアティヴの主な目的の一つに、女性と女性団体のネットワークづくりがあった。UNHCRの支援もあって、代表的な女性団体「クラブ・ママン・スポーティヴ」の本部が1997年に発足した。〔中略〕このセンターを訪れたとき、思いもよらないことが起きた。リーダーたちが私に贈り物をくれるというのである。それは一頭の牡牛であったが、ルワンダ社会では最高の感謝の念を表す、特別な贈り物である。私は面食らったが、できるかぎり恭しく贈り物を受け取った」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』306頁
1997年2月
アフリカ大湖地域の難民問題に関して同地域の6カ国を訪問する。
「2月7日から16日にかけて、ザイール、ケニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、タンザニアの6カ国を訪れ、各国の首都と難民の所在地を回った。それまで私が経験したなかで、最も厳しい旅であった」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』276頁
1998年2月
アフリカ大湖地域の難民問題の解決のための国際会議開催をめざし、東アフリカ諸国を訪問、調整にあたる。
「3週間で9カ国を歴訪したこの旅は、私が難民高等弁務官として行った出張のうち、最も長く広範囲にわたるものであった」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』308頁
1998年5月
ウガンダの首都カンパラで国際会議を開催する。
「OAUのサリム事務局長と私が共同発起人を務め、日本政府が会議の資金を提供した。私はこの機会をとらえ、アフリカの名門大学の一つであるマケレレ大学で、「連帯と国づくり」と題する講演を行い、多数集まった聴衆を前に、難民問題の重要性を訴えた。/この会議は、大湖地域の難民の命を救おうと奮闘した歳月のなかで、最も目覚ましい前進を示すものとなった」
『紛争と難民 緒方貞子の回想』312-313頁
2001年9月
アメリカで同時多発テロが起こる。滞在先のニューヨークで世界貿易センタービルの倒壊を目撃。
「2001年9月11日の朝も、借りていた自分の部屋で新聞を読むなどして過ごしていたのですが、なんの気なしに外を見たら、世界貿易センタービルから煙が出ているのです。しばらくしたら、もうひとつのビルからも炎が出ていまして、何が起きたのだろうとテレビをつけました。そのうち物凄い勢いでダーッと崩れました。しばらく呆然としたのを覚えています。/そのうちアメリカは悲しみの感情以上に、報復の感情に飲まれてしまったようでした。アメリカ全体がアフガニスタン空爆に前のめりになっていったのです。「戦争」という言葉も溢れていました。怒りで冷静な判断ができなくなっていたのかもしれません。あんなアメリカを見たことはなかったと感じました」
『聞き書 緒方貞子回顧録』(岩波現代文庫)273頁
2002年1月
日本政府の代表団を率い、パキスタン、アフガニスタン、イランを訪問する。
「〔アフガニスタンのヘラートで〕女子高校が一校、ちょうど開校したところで、3月からはじまる新学期の準備として、国連児童基金(UNICEF)の支援による試験的な授業が行われていた。校庭では女子生徒たちが列をつくって迎えてくれ、民族衣装を着た小さな少女たちが花と歌で歓迎してくれた。授業を参観すると、タリバーンの支配下では、女子が学校に通うことは禁止されていたため、生徒の体格から年齢のばらつきがあることが見てとれた。少女たちは活発で、学校に戻れる喜びにあふれていた。教師たちにも会い、何が一番ほしいかと尋ねた。すると、口をそろえて「給料!」と答えた。何ヵ月も、何年も、無給で教えていたのである。本、ノート、鉛筆が必要だったし、実際、ありとあらゆるものが必要だったのである。UNHCRのベテラン通訳はその日の終わりに静かに私に呟いた。「きょうは良い一日でした。少女たちが学校に戻ってきたのです」。
『紛争と難民 緒方貞子の回想』348頁
2012年3月
JICA理事長を退任。
「東日本大震災を機に『持ちつ持たれつ』だということがわかった。これまでは日本の一方通行の支援だったが、日本も支援を必要とする国だという意識が途上国に芽生え、今度は自分たちが助けようという動きにつながった。外交体制を作っていく時には、何を取って何を渡すかという相互補完的な視点が必要だ」「日米関係にプラスかどうかや、他国のやり方を見て途上国援助を考えるのではなく、まず現場をみて方針を決めるべきだ」
「(再生・日本政治)国際援助、進む方向議論を JICA理事長・緒方貞子さん」『朝日新聞』2012年3月5日朝刊
第1期での展示に加え、第2期では緒方さんの思いを受け継いで尽力する人々の動画や、新たに見つかったマザーブリットの写真などを紹介します。