緒方貞子さんを
緒方さんの体力と勘を養ったテニス
国際社会で重責を負ってもテニスは続け、数々の難局と向かう時には、
テニスと共通の技法が働いていたと振り返ります。
私は元々おてんばでした。子供のころいちばん楽しみだったのは運動会。長距離は苦手だけど短距離は得意中の得意。身体を動かすことが大好きだったんです。そんな私の一番近くにあったのがテニス。テニスってボールをうまく打てると天にも上るような心地になるでしょ。スパンと打てたときは本当に気持ちいい。テニスは私の性に合っていたのね」
聖心女子大学入学当時、「なるべく午前中に授業をすませ、午後はテニスにいそしむほどのマニアだった」と、テニス部の“生みの親”、緒方さんは語りました。
「学生時代、夏の軽井沢は全日本選手権の練習の場という感じでした」と言っておられ、大学3年の時(1950年)の全日本選手権シングルス・ベスト8という成績でした。
UNHCRのトップとして、難民保護と支援に従事し、現場主義のもと世界各地を東奔西走するようになってからも、ジュネーブの本部に戻ると、少なくとも週一回は昼休みや週末にテニスを続けられました。強行軍の難民キャンプ視察から夜行便で戻ってすぐ着替えてテニスコートに向かわれることもあったと言います。「テニスで鍛えた体力やカンが私の現在の健康の基礎となり、難局に立ち向かうときの活力の源泉となっていることは否定できない。」
「国際舞台でさまざまな仕事(を)するようになって気づいたのはテニスで培った「戦略性」が役にたっということ。テニスって空間を見つけることがとても大事でしょう。右が空いていればそこへ、後ろがあいていればドロップショット。ネットに詰められたらロビング。そうやって相手(交渉側)の手を読むことが、得意のようでした。勘が働くとでもいうのかしら。これはテニスをやっていたからじゃないかしら、、、、それに世界を飛び回る上でなくてはならないのが体力。若い時にテニスで鍛えておいて本当に良かったと思います」
緒方さんは、晩年も軽井沢の別荘で過ごされるときに現役学生のテニス部軽井沢合宿と時期が重なると、必ずコートに来て後輩を激励してくださいました。
他者への思いやり、
深い学識にもとづく思考と行動、家族の支え
他者への思いやりや高い学識がありました。そして、家族のサポートも不可欠でした。
家族のサポート
(子育て中の緒方さんが、国連総会に初めて参加することになった際に、父・中村豊ー氏が緒方さんにかけた言葉)「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」
2014年、p.128)
(夫・緒方四十郎氏について)「私が日本を離れていろいろな仕事を続けてこられたのも、緒方のサポートがあったからです。向こうがどう思っているかわかりませんが(笑)、パートナーとして感謝してもしきれないと思っています」
〈岩波現代文庫〉、 2020年、p.62)
深い思いやり
(UNHCRの職員)「彼女をいちばん的確に形容する言葉は、やはり“ケアリング(思いやりの深い)”という言葉でしょう。難民に対してはもちろんでしたが、もう一点言っておきたい側面は、彼女が UNHCRのスタッフのことも非常によく気にかけてくれていたことです」
他者の声に耳を傾ける
(大学時代の友人)「みんなの意見をそれぞれお聞きになって、まとめ上げていました」「何しろ人の意見をよくお聞きになりますから」
(UNHCRの職員)「彼女はチームプレーヤーで、人の意見を求め、よく話を聞こうとするタイプの人なのです」
「緒方さんは、難民たちがどんな経験をしてここに至ったのかを理解するために、ひたすら彼らの声に耳を傾けていたのです。その姿は思いやりにあふれていました。さらに、難民の話を十分に聞いた上で、その地域の政治的なリーダーとも交渉しました」
優れた実務家であり研究者
「何か片づけたいと思うのです。プラグマティックな性格なのかもしれません。それに、ディシジョン・メーキング(政策決定過程論)を勉強してきた影響もあるかもしれない」
「私には研究が実務に非常に役立ったのです。たとえば、政策決定過程論がそうです。実務をするようになって、物事を動かそうとするときに、政策決定過程論の思考方法が本当に役立ちました」
国連難民高等弁務官としての責任感・指導力
リーダーとしての強い責任感をもって決断し、スタッフとともに任務を遂行しました。
リーダーとしての責任感
「決めなくてはならないのは私だから。(中略)だって、聞く人はいないのです。(中略)トップというのはそのためにいるのです」
2014年、p.179)
「大事なときは行動しないとならないのです。スピードが求められるときに、原則に即してどう決定するかを慎重に考えている余裕はありません。そのような中でこそ、リーダーシップが大事なのです」
〈岩波現代文庫〉、2020年、p.151)
(超人的な働きぶりについて)「一種の使命感のようなものもありましたが、やはりいい部下がたくさんいたから、やることができたのです。みんな結束していましたし、一緒に仕事をしていて楽しかったです。もちろん大変なこともたくさんありましたけれど、スタッフと話をしていくうちに、やってやろうという気になってくるのです」
現場主義
「現場を見るということは、人間と知り合うということでしょう。(中略)そこで生きている人たちに会うのは、とても大事なことだと思います。その場まで行って、きちんと犠牲者と会い、そして状況を判断できないとね」
苦悩・怒り・悲しみ
(旧ユーゴスラヴィア紛争における活動の際)「輸送隊が次々と攻撃されます。犠牲者が続出して、耐えがたい思いをしました」
「人道援助を政治的に利用するなんて、考えられないことです。それを聞いて、私は激怒したのです」
「少数派が戻ってきて自分の家をようやく修復した直後に、家が爆破されるという出来事もありました。どうしてそんな愚かなことを・・・・・・、 いま思い出しても、腹が立ってしょうがありませんよ」
(辛かったこと)「部下を亡くしたことです。部下といいますか、私の同志でした・・・・・・(長らく沈黙)」
折れない心
「私はもともと楽観主義的な性格なのかもしれないです。へこたれるということを経験したことがないのです」
「私は、心配で眠れないということはないのです。気分転換にテニスを時々していました」
第1期での展示に加え、第2期では緒方さんの思いを受け継いで尽力する人々の動画や、新たに見つかったマザーブリットの写真などを紹介します。