プラハから北へ60キロほど離れた小さな街・テレジン。
アウシュヴィッツに程近いこの地は、のちに「地獄の控え室」と呼ばれ、
14万4000人ものユダヤ人が送られてきました。うち、子どもは1万5000人。
家族から離され、飢えと寒さ、暴力に苦しみ、怯える日々。
生き残った子が「たった一つの楽しかった思い出」とふり返るのが、
フリードル先生の絵の教室でした。 遺された絵に込められた「思い」とは。
子どもたちが遺した絵の存在やホロコーストを語り継ぐ活動を続ける、
野村路子さんと生への渇望を考えます。
展示2
テレジン収容所の
子どもたちが遺した絵
野村路子
(ノンフィクション作家)
[Profile]
1937年東京生まれ。59年早稲田大学第一文学部仏文科卒業。
コピーライター、タウン誌編集長などを経て、新聞・雑誌などにエッセイ・ルボルタージュなどを執筆していたが、89年、プラハで、第二次世界大戦時に、テレジン収容所で子どもたちが描いた絵と出合い、その日本では全く知られていなかった事実を伝えようと、在日チェコ大使館、ユダヤ博物館などと交渉、150点の絵のレプリカの永久使用権をいただき、91年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』を全国23会場で開催すると同時に、数少ない生還者への取材を始めた。
その後、32年間、展覧会開催とともに、講演や執筆活動を続け、さらに、ホロコーストの事実を伝えるため、国外ではポーランド・チェコを訪ねるツアー、国内では敦賀市・八百津町・福山市などを訪ねるツアーも実施している。
『テレジンの小さな画家たち』(産経児童出版文化賞大賞)。『フリードル先生とテレジンの子どもたち』、『生還者たちの声を聴いて』など著書多数。
2010年より、小学校6年国語教科書(学校図書刊)に『フリードルとテレジンの小さな画家たち』掲載。その教科書で学んでいる学校を中心に、小・中学校での講演も多い。
テレジンの子どもたちの遺した詩を中心に詩作・構成をした、朗読と歌によるコンサート『テレジンもう蝶々はいない』を全国各地で上演。2001年にはプラハ、テレジンでも上演。
2023年3月には、長年続けてきたホロコーストを知る旅のひとつであるイスラエルを訪ねるツアーを再開するなど、「伝える努力」を今も続ける。
「いのち平和そして出会い ~講演&コンサー ト ~『テレジンもう蝶々はいない』」は、こちらから視聴できます。
子どもたちが遺した絵
1937年東京生まれ。59年早稲田大学第一文学部仏文科卒業。
コピーライター、タウン誌編集長などを経て、新聞・雑誌などにエッセイ・ルボルタージュなどを執筆していたが、89年、プラハで、第二次世界大戦時に、テレジン収容所で子どもたちが描いた絵と出合い、その日本では全く知られていなかった事実を伝えようと、在日チェコ大使館、ユダヤ博物館などと交渉、150点の絵のレプリカの永久使用権をいただき、91年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』を全国23会場で開催すると同時に、数少ない生還者への取材を始めた。
その後、32年間、展覧会開催とともに、講演や執筆活動を続け、さらに、ホロコーストの事実を伝えるため、国外ではポーランド・チェコを訪ねるツアー、国内では敦賀市・八百津町・福山市などを訪ねるツアーも実施している。
『テレジンの小さな画家たち』(産経児童出版文化賞大賞)。『フリードル先生とテレジンの子どもたち』、『生還者たちの声を聴いて』など著書多数。
2010年より、小学校6年国語教科書(学校図書刊)に『フリードルとテレジンの小さな画家たち』掲載。その教科書で学んでいる学校を中心に、小・中学校での講演も多い。
テレジンの子どもたちの遺した詩を中心に詩作・構成をした、朗読と歌によるコンサート『テレジンもう蝶々はいない』を全国各地で上演。2001年にはプラハ、テレジンでも上演。
2023年3月には、長年続けてきたホロコーストを知る旅のひとつであるイスラエルを訪ねるツアーを再開するなど、「伝える努力」を今も続ける。
「いのち平和そして出会い ~講演&コンサー ト ~『テレジンもう蝶々はいない』」は、こちらから視聴できます。
1945年。テレジン収容所が解放されてドイツ兵が逃げ去ったあとの廃墟に、4000枚もの絵が残されていました。ドイツ兵の目を盗んで、勇気ある大人たちが子どものために開いた絵の教室。紙も鉛筆も、クレヨンもほとんどないなかで、生きる気力を失わないように、明るい明日がくることをあきらめないように。理不尽な死への不安のなかで描かれた絵から、あなたは何を感じますか?
解説/野村路子
収容所のなかで「ユダヤ人には教育はいらない」と考えているドイツ兵が許可したのは、歌を歌うこととゲームをすることだけでした。厳しい労働、飢え、寒さに苦しむ子どもたちを励ますため大人たちが立ち上がります。「私はユダヤの歴史を」「私は美しい詩を」「物語を」と、何人もが先生になると名乗りを上げたのです。そのなかで「絵を教えます。絵を描くことは、生きる力になると私は信じています」と言ったのが、フリードル・ディッカーでした。
ウィーンで生まれたフリードルは、幼い頃から絵を描くことが大好きでした。美術工芸学校で学び、その後、1921年に生まれたばかりの前衛芸術運動の拠点『バウハウス』で学ぶためにドイツへ移りました。そこで、 絵画だけでなく、彫刻、舞台美術、舞台衣装、テキスタイル、グラフィック・デザインなど総合芸術を学び、アーティストとして才能を発揮します。
しかし、ナチスの台頭とともに、ユダヤ人であるフリードルもテレジン収容所へ。持ち込みが許されるのは、一家族50キロの荷物だけです。フリードルは呼出し状を受け取った夜、ありったけの紙や布を集め、その一部を絵の具でさまざまな色に染めトランクにつめました。収容所がどんなところか分からないけれど、そこで子どもたちと出会うことがあれば、きっと役に立つはずだと思ったのです。 アートセラピーも学んだフリードル。命をかけて、絶望のなかでも子どもたちに絵を描く喜びを伝えたのでした。
フリードル先生は、テレジンへの呼び出し状を受け取った夜、家にあった、ありったけの紙を集め、その一部を絵の具で染めて、トランクに入れたという。持参できる荷物は一家族50キロまで。行く先がどんなところか、どんな生活になるのかはわからなかったが、彼女は、そこに子どもがいたら、この紙はきっと役に立つと信じていた。
それぞれが大切に持ってきた品物のほとんどは、収容所の入り口で取り上げられたが、紙や使いかけの絵の具は、ナチス親衛隊員らには「つまらないもの」と思われたのだろう、持ち込みは許された。
フリードル先生は、絵を描くだけでなく、コラージュ作品などに力を入れていた。制作に夢中になることで、現実の辛さを忘れられるはずと……。そして、多くの子どもたちが、明るい絵を描けるようになった頃、持ちこんだ僅かな画材はなくなっていた。そのことを、同じ部屋で暮らす女性たちに話したところ、それぞれが、自分のセーターの袖や裾をほどいて、毛糸を集め、フリードル先生に差し出したのだという。生還者の一人ラーヤ・エングランデロヴァー(現 ザドニコヴァー)は、その時に手にした毛糸は「暖かい気がした」と語ってくれた。書類の紙は、大人の収容者たちがごみ箱から拾い集めてくれたものだろう。
フリードル先生は、絵を描くだけでなく、コラージュ作品などに力を入れていた。制作に夢中になることで、現実の辛さを忘れられるはずと……。そして、多くの子どもたちが、明るい絵を描けるようになった頃、持ちこんだ僅かな画材はなくなっていた。そのことを、同じ部屋で暮らす女性たちに話したところ、それぞれが、自分のセーターの袖や裾をほどいて、毛糸を集め、フリードル先生に差し出したのだという。生還者の一人ラーヤ・エングランデロヴァー(現 ザドニコヴァー)は、その時に手にした毛糸は「暖かい気がした」と語ってくれた。書類の紙は、大人の収容者たちがごみ箱から拾い集めてくれたものだろう。
フリードル先生は、絵を描くだけでなく、コラージュ作品などに力を入れていた。制作に夢中になることで、現実の辛さを忘れられるはずと……。そして、多くの子どもたちが、明るい絵を描けるようになった頃、持ちこんだ僅かな画材はなくなっていた。そのことを、同じ部屋で暮らす女性たちに話したところ、それぞれが、自分のセーターの袖や裾をほどいて、毛糸を集め、フリードル先生に差し出したのだという。生還者の一人ラーヤ・エングランデロヴァー(現 ザドニコヴァー)は、その時に手にした毛糸は「暖かい気がした」と語ってくれた。書類の紙は、大人の収容者たちがごみ箱から拾い集めてくれたものだろう。
子どもたちが楽しく遊んでいる様子が見られる。ある小学校で、この絵を見せた時、「もっと濃い絵の具で描いた方が、楽しそうに見えるのに……」と言った生徒がいた。収容所で描かれた絵と説明すると、その生徒は「塗りたくても絵の具がないんだね」と。
1898年、ウィーンで生まれたフリードル先生は、幼い頃から絵を描いたり、粘土をこねたりするのが好きだった。折しも、文化芸術が華やかに開花していた時代、街ではクリムトやエゴン・シーレの絵が見られた。幼い頃に母を亡くしたフリードル先生は、父が勤める街の大きな文具店に出入りし、画集や展覧会のポスターをあかず眺めていたが、16歳の時、ウィーンのグラフィックデザイン実験学校に入った。ここで、基本的な教育を受けることになったのだが、収容所の中で、数少ない静物を集めて絵を描かせたのは、かつて自身が受けた教育の一環なのだろうか。
1898年、ウィーンで生まれたフリードル先生は、幼い頃から絵を描いたり、粘土をこねたりするのが好きだった。折しも、文化芸術が華やかに開花していた時代、街ではクリムトやエゴン・シーレの絵が見られた。幼い頃に母を亡くしたフリードル先生は、父が勤める街の大きな文具店に出入りし、画集や展覧会のポスターをあかず眺めていたが、16歳の時、ウィーンのグラフィックデザイン実験学校に入った。ここで、基本的な教育を受けることになったのだが、収容所の中で、数少ない静物を集めて絵を描かせたのは、かつて自身が受けた教育の一環なのだろうか。
1991年の全国巡回展の際、絵は劣化が進んでいるからオリジナルの貸し出しは不可能、レプリカ作成のための写真フィルムを提供するというのが、チェコのユダヤ博物館の話だったが、その劣化の様子も見せたい、拾った紙に描いた絵だということもぜひ見せたいのだと繰り返しオリジナル作品の貸し出しを頼み、6点の展示が実現した。
その1枚がこの絵。これは、箱の蓋らしいボール紙に貼ったコラージュ作品。
この左側の少女の頭には、人の髪の毛が使われている。当時のユダヤ博物館学芸員のアンジェラは、「おそらく右の少女の髪に毛糸を使って、毛糸がなくなってしまったのだろう」と言った。医者の髪は鉛筆で描いたが、少女の頭には髪の毛が欲しい………。そう思って自分の髪を切ったのではないかと推測される。
この作品は未完成である。ベッドサイド、テーブルなど、色紙があれば、もっと細かく作りたい。全部終わったらサインをしよう………。だが、この作者に、次の絵の教室はなかったのだろうと思われる。だから、作者は不明である。
わずかな髪の毛だけが、この作者の、この世に生きた証となってしまった。
フリードル先生は、子どもたちに「絵が描けたら、必ず名前を描きましょう」という指導をしていたという。「ドイツ兵は、番号で呼ぶけれど。それは違うのよ。あなたたち一人ひとりに、ご両親があなたを愛してつけてくれた名前があるのよ」と。
《作者不明》となっている作品の多くは未完成のものである。
1942年、プラハから北へ60キロほどのところにあった「普通の街」テレジンは、ナチス親衛隊保安部長ラインハルト・ハイドリッヒの命令で、収容所の街テレージェンシュタットになった。人々が住むアパートも店も、銀行も郵便局もすべてが収容所の××棟になったのだ。
《女の子の家》はもともと集合住宅だった建物で、これは、今も「普通の街」の「普通の家」として使われている。
当時の《男の子の家》は、現在、内部は改築されて博物館になっているため、この光景を探すことができない。だが、いかにも《収容所》らしい雰囲気であり、あの建物の地下かなとか想像はできる。三段ベッド(※収容所には人があふれ、三段ベッドは何人もが折り重なるようにして眠っていた)のある部屋を描いた絵は多くあるが、これはめずらしい。
父親が殺されてしまって、ボクは一人ぼっちになってしまった、もう夜になるけど、どこにも帰る家はない……。首を吊られる人の胸の、ダビデの星が鉛筆で濃く描かれていることにヨセフ少年の怒りが感じられる。
この少年の絵は3枚あるが、いずれも鉛筆で描かれた収容所の姿。フリードル先生がいくら「楽しかった時を思い出して絵を描こう」と誘っても、もう明るい絵を描けなくなっていたのではないかと思える。
野村が最初に見た画集(1985年 イタリア)では、この絵は《作者不明》となっていた。当時の名前はEdyta Pollachovaだが、彼女は、学校時代から自分の名を《Dita》と書くことが多く、そのために、該当する人がわからなかったのだろう。80年代後半、イスラエルで『Friedl Dicker & her Pupils』という展覧会が開催され、それを見に行った彼女が、自分の絵であると申し出たのだという。
彼女は、野村にとって、初めて自分の体験を語ってくれた人で、彼女の口添えがあって、その後、5人の生還者と会うことができた。「私は生きているのだから、話すのが義務」とディタは言った。「みんな殺されてしまって、話したくても話せないのだから………」と。
野村は、日本で展覧会を開催するにあたって、レプリカを作るための写真フィルム150枚をユダヤ博物館から受領したのだが、その際、絵を選ぶ中で、心に残った絵の1枚がこれだった。描いた子どもがプラハに住んでいると分かり、何回かの交渉の末、面会が実現した。もちろん聞きたかったのは「この絵は何を?」ということだったが、彼女は、それには答えず他の話を始めるのだった。幸い、彼女とは親しくなって、その後も何度かお会いしたが、いつも同じだった。
朝の配給の《コーヒー》は、コーヒーとは思えないまずいものだったとか、藁布団を引っ張り合ったら中の藁がこぼれたとか、女の子の仕事である畑仕事の中で、トマトを盗んで食べたことがある(見つかれば当然罰せられる。ジャガイモを盗んで銃で撃たれた子もいた)とか……。
日本での展覧会開催が決まって、当分プラハには来られないと伝えた日、彼女はさりげなく、「それでは、今日は、母親との別れについて話しましょう」と言って語り始めた。
「ある日、1944年だったわ、ずっと会っていなかったお母さんが、私たちの家に来たのです。そのころはもう、私たち《女の子の家》も、人が少なくなっていました。とても嬉しくて、飛びつきましたよ…。そうしたら、お母さんがお別れに来たというのです。明日の貨物列車に乗ることになったって。
悲しかったですよ。だって、いろいろつらいことがあっても、お母さんに会えるまでは頑張ろうと思っていたのに。そのお母さんがいなくなったら、私はもう頑張れないと思ってね、ドイツ軍の事務所へ行ったのです。「明日の列車に私も乗せてください」と頼んだのです。初めは「ダメだ ダメだ!」って言われましたよ。「お前は畑仕事のリーダーだろう?まだ残っていろ」って。でも、必死で頼みました、何度も、お願いしますって。
そうしたら、「そんなに行きたきゃ行け!」って言ったのです。
だから、次の日の朝、貨物列車のところへ走って行ったのですよ。知っているでしょう? プラットフォームも何もない、ただ線路のレールがあるところ。長い列車でした。ただの黒い箱みたいな貨物列車が何十両も連なっていました。私は、お母さん、お母さんって大声で呼びながら走りました。そうしたら、ある列車からお母さんの声がしたのです。
「ラーヤ、お母さんはここよ」って、人の間から顔を出して、手を伸ばしてくれたので、私は必死でタラップに上がって手を掴みました。
そこへ見回りのドイツ兵が来たのです。「おい、何してる?お前は名簿に載っていないだろう?降りろ!」と言って、私の腕をつかんだので、私は下に落ちてしまいました。転がって、起きようとしている目の前で、重い木の扉が閉まり、ドイツ兵が閂をかけ…列車は動き出しました。あれが、テレジンから《東》(※アウシュヴィッツ)へ行く最後の列車でした。そして、私は生き残ったのですよ』
プラハでは、長く寒い冬が終わり、春になると移動遊園地がやってくる。ある朝、街角にメリーゴーラウンドができ、ブランコができ、アイスクリームの店ができる。子どもたちの嬉しい季節だ。
プラハでは、長く寒い冬が終わり、春になると移動遊園地がやってくる。ある朝、街角にメリーゴーラウンドができ、ブランコができ、アイスクリームの店ができる。子どもたちの嬉しい季節だ。
何もない子は、紙に絵を描いてカードを作ったというが、これは、そんな作品か………?
アメリカ、ニューメキシコ大学のリニー・ウィックス教授は、フリードル先生を、芸術家であると同時にアートセラピストとしての大きな足跡をテレジンに残したと言っている。
アメリカ、ニューメキシコ大学のリニー・ウィックス教授は、フリードル先生を、芸術家であると同時にアートセラピストとしての大きな足跡をテレジンに残したと言っている。
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。その中でも、この絵はさまざまなところに使われ、テレジンを象徴する絵になっている。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
ある小学校の美術の研究授業で、この絵が取り上げられ、生徒からは、「あまり上手ではない」「花を描くなら、もっときれいな色でたくさん描いた方が良い」「蝶々が人間の顔みたいでおかしい」などたくさんの感想が出た。その上で、野村が、この絵が描かれたテレジン収容所のこと、この絵を描いた子もアウシュヴィッツで殺された、という事実を話したことがあった。その後、もう一度、感想を―と言われた生徒の一人は、この絵の前に進み出て頭を下げ「さっきはごめんね」と詫びた………。
「さっき、蝶々の顔がおかしいと笑ったけど、君は蝶々になりたかったんだね。蝶々になって遠くへ飛んで行きたかったんだね。だから、蝶々に君の顔を描いたんだ………」
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
花と蝶を描いた絵はたくさんある。蝶々だったら、自由に外へ飛んでいける。高い塀を越えて、美しい花の咲く野原へも、大好きだった我が家へも………。そんな夢を託したのだろう。
明るく 眩しく 黄色にかがやく………
ー 中略 ー
あの時の 黄色い蝶々が
最後の蝶々だったのだ
もう 蝶々はいない ここには
この収容所には
パヴェル・フリードマンという少年は、そんな詩を遺した。
フリードル先生は、花を見ることのない子どもたちのために、花の絵を描いて見せたという。「これがスミレ、これがユリ、これがガーベラ………。先生の話を聞いていたら思い出しました。前にお母さんと行った花屋さん。そして、花の絵を描けるようになったのです」と語ってくれた生還者の一人ディタ・クラウスは、93歳になる今も、イスラエルの海辺の街で花の絵を描いている。
「今は、花しか描きません。あのころ、汚いもの、醜いものばかり見ていました。だから、今はそんなものは見たくない。美しい花だけ描きたいのです」