マザーブリットが語る知られざる物語

聖心女子大学の初代学長マザーブリットが経験した、
やがて誕生する大学の姿に映しだされる出来事とは?
その知られざる物語を
マザーブリットの視点で綴ります。

日本へ

私は39歳のとき、アメリカから日本に派遣された。 それは1937年のこと、聖心会(国際・教育修道会)の会員として日本の聖心女子学院で働くためだった注①。 日本に来たとき、東京と関西に聖心の小中高校があり、東京には聖心女子学院高等専門学校(1916年開校、聖心女子大学の前身)と、外国人生徒のための小中高校(語学校と呼ばれ、インターナショナルスクールの前身)もあり、私は語学校の副校長として働くことになった。

学校の教育理念は、アメリカの聖心女子学院で20年間働いていた時と同じく、聖心会創立者マグダレナ・ソフィア・バラの “一人ひとりを大切にするという理念のもと、知性と感性を育て、社会への関心を行動で示す人間を育成すること” であり、日本の聖心女子学院にも自然にとけこむことができた。

戦争、抑留、
そしてアメリカに

日本に来て5年目、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。開戦直後も最初は敵国同士の会員が一緒に学校で教え続けた。しかし、1942年9月16日の朝、突然、連合国側国籍の27人が捕らえられ、私も大田区の抑留所に連れて行かれた注②

高等専門学校で教えていた会員が抑留された後、直ちに教員免許を有する卒業生たちが集まって授業を行ったと後から聞いて、これこそ ”聖心スピリット” だと思った注③

抑留中の生活は厳しく、1943年には、衰弱の激しかった会員に同伴してアメリカに一時帰国することになった。 1943年9月14日に横浜を定員の450人の3倍以上を乗せた帝亜丸で出航、途中上海、サンフェルナンド(フィリピン)、サイゴン、シンガポールに停泊し、インドのゴアでグリップスホルム号に乗り換えた。 そして、日本を出て2か月半後の12月1日にニューヨークの港に到着注④。 出迎えてくれたKenwood聖心の修道院長と2人のシスターたちに会った時の安堵は忘れられない。

マンハッタンビル聖心大学で見た学生の社会奉仕活動

しばし休養の後、ニューヨークのManhattanville College of the Sacred Heart (マンハッタンビル聖心大学、少人数のリベラルアーツ大学)で初めて大学生を教えることになり、3年次生の担当になった。 ここでも教育理念は他の聖心の学校と共通だと感じた。 この時のことは当時のYearbook(年鑑)を見ると懐かしい。

マンハッタンビル聖心大学イラストマップ 1945
Yearbook 1945
Yearbook 1945に掲載の3年次生 集合写真
マンハッタンビル聖心大学とハーレム付近のマップ

マンハッタンビル聖心大学で印象的だったのは社会奉仕活動がとても熱心だということ。

それというのも、当時の学長マザーダマン注⑤は、人権擁護、人種差別撤廃、社会正義などを強く主張し、大学がハーレムの近くだったこともあり、毎週末には近隣のカシータ・マリアやバラ・セツルメント注⑥など、イタリア移民や、プエルト・リコ移民の子どもたちの施設へ奉仕活動に行くことが推奨されていた。

子どもたちをキャンパスに招いて一日いっしょに過ごすピクニックデイもあり、学生たちが協力して遊びやランチ、お土産などを準備した。特筆すべきは、こうした支援活動を卒業後もずっと続けていることで、 「木曜にはバラ・セツルメントでの活動を!」と会報で呼びかけていた注⑦。卒業生の行動こそが教育の実りを示すと実感した。

子どもたちをキャンパスに招く
子どもたちの勉強相手をする

また水害やハリケーンなどの災害があると、直ちに食料、衣類、おもちゃ、学用品などを集めて彼災者に送る学生たちの姿があった。病院の訪問もしていた。世界各地で働く宣教師のための資金集めを目的としたファッション・ショーやビンゴ・パーティーなどのイベントやクリスマス・プレゼント配りなどを、皆で協力して楽しそうにやっていたことも忘れられない。

集まった缶詰運び
缶詰並べ

マンハッタンビル聖心大学での経験は、まったく予想外だった。戦争中の思いがけない一時帰国の時のことで、わずか2年間だったが、今考えると不思議なめぐりあわせだったと感謝している。 終戦の翌年には日本に戻り、聖心女子大学開学期に学長に就任した 私にとって、マンハッタンビル聖心大学での経験はかけがえのない ものだった。新しい女子大学における教育方針や大学経営に取り入れたものも多く、大きな影響を与えることになったと思う注⑧

再び日本へ

終戦の翌年、1946年9月に日本へ出航する最初の船で私は日本に戻った。この船には、時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)の家庭教師として抜擢されたエリザベス・ヴァイニング夫人も乗っていて、私たちはよくお喋りをした。このときの私たちにとっては、後に私が学長に就任する大学の卒業生が皇太子妃になることは想像外だった注⑨

10月15日に横浜港に到着し、東京に向かった。道すがら、元の東京は見る影もなかった。前に働いていた聖心のキャンパスの建物は焼け落ちていて、変わり果てた光景に足がすくんだーー 何もないのだ。
そのようななか、仲間たちは笑顔で迎えてくれたが、私は話しかける言葉を失っていた。

私は再び語学校の副校長に就任し、高等専門学校の手伝いもしながら、間近に迫った大学設立の準備にあたることになる。

聖心女子学院高等専門学校があった建物
(1945年3月10日、東京大空襲で焼失)注⑩
東京大空襲で罹災した建物

初代学長となって

1948年に聖心女子大学が開学し私が初代学長となった時、教育方針の重要な柱は、学問の探究、学生自治会を通したリーダーシップの養成、課外活動や社会奉仕活動の奨励だった。自分の頭で考え、他者への思いやりを行動で表し、社会に働きかける賢明な女性を世に送り出すことを大学の使命と考えた。

マンハッタンビル聖心大学で盛んだったセツルメント支援活動に日本でも取り組みたいと思っていたところ、上智大学が設立した三河島セツルメント(親から離れた子どもたちの支援活動を中心としていた)注⑪への参加・協力が高等専門学校や高等学校でも始まっていたことを知り、早速、M.S.S.S.(当初はサンタソフィア布教使徒会、後にマグダレナ・ソフィア・ソーシャル・サービス)を立ち上げた。

まずは近隣の子どもたちのための日曜学校から始めた。学生たちが“先生”になって、勉強や祈りや遊びをいっしょにして半日を過ごした。クリスマスには120人もの子どもたちが集まり、学生たちの指導で聖書の物語の劇をしたり、歌を歌った。そして、学生たちが準備したプレゼントを配った。子どもを連れてくる保護者もいて賑やかな日となった。学生数が少なかった開学当時には、ほとんど全員が協力していた。

さまざまな社会奉仕活動

災害時の支援物資集めも、あたりまえの活動になっていった。非常時のために、普段から衣類を集めてサイズを直す仕事、視覚障がい者のための朗読録音テープ作り、高齢者施設に贈るパッチワークのひざかけ作りなど、どれも、学生たちは協力してかたちにしていくことを学んだ。

クリスマス・プレゼントの山
聖心女子大学Yearbook 1952
パッチワークのひざかけ
聖心女子大学Yearbook 1964
毛糸、編み棒の寄付を呼び掛けるポスター
聖心女子大学Yearbook 1964

兵庫県宝塚市にあった聖心女子大学小林分校での社会奉仕活動も忘れてはならない注⑫。その基礎を築いたのは、私より30年前にドイツから派遣されていたマザーマイヤーだった。マザーは社会福祉事業に携わる他の修道会との協力によって、大阪府の生活困窮者が住む地域に聖心セツルメントを、学校のすぐそばには無料の保育所を設立し、経営面での支援も行った。学生たちはそれらの施設で子どもたちと遊び、学び、共に過ごした。子どもたちと学生たちは生活環境が大きく異なっていたが、仲良くなっていった。私はマザーマイヤーの勇気や情熱から多くを学び、最も尊敬する先輩と感じている注⑬

マザーマイヤー
小林聖心女子学院所蔵
聖心セツルメント
小林聖心女子学院所蔵

三河島セツルメント

開学3年目の1950年度からは三河島セツルメントの奉仕活動を始めた。毎週末に有志の学生たちが大学から 1時間以上かかる三河島に行って勉強を教えたり、遊び相手をしたりして、お互いに友だちになっていった。年一回は子どもたちを大学キャンパスに招いて学生たちもいっしょに思い切り楽しく過ごす日を設けた。このような大イベントでは私が陣頭指揮を執った。毎年200人前後、多い時は260人の子どもたちが引率10人とやってくるので、ランチや、スポーツ・ゲーム大会、お土産の準備など、普段活動に参加していない学生も全員が仕事を分担する。子どもたちにとっても、学生たちにとっても、思い出に残る日となる。

夏の活動は臨海学校で、海の遊びと安全面を上智大生が担当し、一日3度の食事つくりを聖心大生が担当、文字通り一週間朝から晩まで休む暇もなかったが、参加した卒業生は当時を懐かしむ。

大学から三河島セツルメント(荒川区)へのマップ
マリアンホール前のフィールドで子どもたちと遊ぶ
聖心女子大学所蔵
庭園で子どもたちと遊ぶ
聖心女子大学Yearbook 1963
ランチタイム
聖心女子大学Yearbook 1952
マリアンホール前のフィールドで子どもたちと遊ぶ
聖心女子大学所蔵
ランチタイム
聖心女子大学Yearbook 1952
庭園で子どもたちと遊ぶ
聖心女子大学Yearbook 1963
注①
聖心会は、フランス革命直後の1800年にマグダレナ・ソフィア・バラによってフランスのアミアンで創立され、翌年にパリで聖心学院が開学。以来、世界各国・地域に多くの姉妹校が発展している。
日本には1908年に、オーストラリアからサルモン以下4人の聖心会員が派遣され、1910年に東京で聖心女子学院高等女学校、小学校、幼稚園、語学校(外国人部)が開校。
アメリカには1818年に、フランスからフィリピン・ドゥシェーン以下5人の聖心会員が派遣され、1818年にミズーリ州セントチャールズで聖心学院が開校。
注②
“菫(すみれ)”と呼ばれた東京抑留所(現在の田園調布雙葉学園)に収容された27人の聖心会員の国籍は、アイルランド3人(後に、中立国として抑留を解かれる)、アメリカ5人、イギリス3人、オーストラリア8人、カナダ1人、ニュージーランド1人,マルタ6人。警視庁管轄下における140人(6人以外は皆修道女)の女性抑留所の生活は“狭い相部屋、粗末な食事、日課表に縛られた窮屈な生活”であったが、不自由な中でも、語学の学習会をしたり、中立国から届く本で読書会をするなどの工夫も行われた。マザーブリットが哲学の講義をしたこともあった(抑留された会員の書簡より)。
(参考資料)
小宮まゆみ 『敵国人抑留―戦時下の外国民間人』 吉川弘文館、2009年/「太平洋戦争下の「敵国人」抑留」 『お茶の水史学』43号、1999年、pp.1-48。
注③
“聖心スピリット”とは、自分のまわりの人が必要としていることに敏感に気づき、自分の頭を使い、心を使い、手足を使って、より良い状態を作り出そうとする生き方のことで、聖心の教育の基本的な精神を示す。
注④
1943年9月14日横浜出港から12月1日ニューヨーク入港迄の79日の航行の間、乗船者の一人、George Wilder(宣教師、鳥類学者)が、毎日正午に通過した地点と日にち、及び、寄港、入港した日にちを記録した地図(下のURLを参照)があり、赤道を4回越えていることもわかる。横浜港を出た帝亜丸は、大阪、上海、香港、サンフェルナンド(フィリピン)、サイゴン、昭南島(シンガポール)に寄港した後、インドのポルトガル植民地、ゴアに10月15日入港、アメリカ方面に向かう乗船者はグリップスホルム号に乗り換えて21日に出港、南アフリカ連邦のポート・エリザベスとブラジルのリオ・デ・ジャネイロに寄港して、12月1日にニューヨーク港に到着した。
(参考資料)
Wilder, George. “Birds Seen from the Decks of the Exchange Ships, Teia Maru and Gripsholm, September 20 to December 1, 1943” in 5. REPATRIATION Voyage(September 20 to December 1), n.d., n.p.,pp.163-199.
鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創『日米交換船』新潮社、2006年。

https://www.salship.se/mercy.php

第二次世界大戦中に、交換船および送還船として用いられたDrottningholm号とGripsholm号の航海に関するサイト。作成者はLars Hemingstam、更なる情報を収集して加筆・修正される由。1943 年の日本からアメリカへの交換船、Gripsholm 号の航海に関しては、下(半分より下)へスクロールするとGeorge Wilderによる地図などの資料が表示される。
注⑤
マザーダマン学長は、人権擁護、人種差別撤廃、社会正義を強く主張し、一部の卒業生たちの強い反対にもかかわらず、アフリカ系アメリカ人学生の入学受け入れを実行した。同学長による論文“Principles Versus Prejudices”は、1938年5月31日の同窓会会合で発表され、その後、広く他大学の管理職関係者の間でも読まれた。ダマン学長の多様性尊重、インクルーシブネスへの確固たる信念と実践は他大学にも大きな影響を与え、現在に至るまでマンハッタンビル大学の教育の特徴となっている。
※マンハッタンビル聖心大学は1999年より聖心会の経営を離れ、マンハッタンビル大学となっている。
https://www.mville.edu/about/index.php
マンハッタンビル大学のWebサイト。p.2以降で、教育方針について次のような特徴が述べられている。“グローバル・コミュニティにおける責任感をもち、多様性、公平性、社会正義を重視し、誰をも排除せず、奉仕することを大切にするリーダーを育成すること。”
注⑥
“セツルメント(Settlement)”の元来の意味は、スラムなどに、識者、宗教家、学生などの有志が定住し、日常的に住民や子どもたちと触れながら、生活の改善を図る活動及びそのための施設のことであり、1900年代初頭からイギリスやアメリカで始まった。アメリカでは特に移民を対象とするものが多かった。上智大学のセツルメントについては注⑪を参照のこと。
注⑦
マンハッタンビル聖心大学の同窓会報(The Manhattanville Alumnae Association, ed. The Tower Postscript, Spring, 1945. pp.11-12)では次のように呼びかけている。(抄訳)“毎週木曜の午後は、バラ・セツルメントへ!公立校に通う子たちのキリスト教教育、小さい子たちの食事の世話、遊びの監督などの仕事が皆さんを待っています。”
注⑧
マザーブリットが勤務した1945年度にダマン学長が急病で逝去し、マザーオバーンが学長に就任した。オバーン学長が一人ひとりの学生と親身に関わったことは、卒業生がよく記憶している(1965年卒の卒業生へのインタビュー,2023年9月6日)。大学が1952年に現在のキャンパス、ニューヨーク州のPurchaseに移転した折にはオバーン学長の経営力が存分に発揮された。マザーブリットは、それぞれ特徴あるリーダーシップを有する2人の学長のもとで働いたことになる。
注⑨
終戦後の1946年、マザーブリット再来日の時の船上でヴァイニング夫人と出会ったエピソードに関する文献は、Elizabeth G. Vining.Return to Japan. Philadelphia:J. B. Lippincott Co., 1960。関連するものとしては、Elizabeth G. Vining(小泉一郎訳)『皇太子の窓』文芸春秋、1953年。
注⑩
聖心女子学院高等専門学校は、この建物の中央の本館にあった。関東大震災で一部が倒壊した後、修復されたが、1945年3月10日の東京大空襲で焼失した。この建物と正門の設計者は、チェコの建築家、ヤン・レッツエルで、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設計者として知られる。なお、正門は、現在も聖心女子学院の正門として使われている。
注⑪
上智セツルメントは、1923年に、東京府三河島町(現在の東京都荒川区)にあった生活困窮者が多く住む地域に、上智大学教授フーゴー・ラサール神父と2人の学生が住み込んで、住民や子どもたちと日常的に触れながら保育、教育、医療などの支援を行って生活の改善を図るために設立された組織・活動であった。学生の社会事業に対する体験と関心を呼び覚ますことも意図されていた。(上智カトリック・セツルメントNo.30参照)。活動の詳細や写真については以下を参照。
(参考資料)
NPO法人ミゼ福祉基金『上智大学セツルメント1931-1967』2017年。上智カトリックセツルメント・OB会 『上智カトリックセツルメントの足跡―セットラーとその仲間の手記―』2015年。上智セツルメントの組織の詳細は『上智カトリック・セットルメント要覧』 n.p.1935を参照。
注⑫
聖心女子大学小林分校は1949年に開設され、教養科目を中心とする大学前期2ヵ年の課程を学び、後期2ヵ年は東京の本校で履修する制度だった。1965年度末に閉校、本校に統合された。
注⑬
マザーマイヤーは、社会福祉事業に携わる修道会、愛徳姉妹会の会員をフランスから大阪に招聘し、大阪市内の生活困窮者が多く住む地域の人々の救済のために聖心セツルメント(保育所、療養所など)を、また小林聖心女子学院のすぐ側に、地域からの要請に応えて無料の保育所、バラ・ホームを設置した。そして、バザーやチャリティーコンサートの収益金、および協力者からの寄付金等により、それらの施設の経営面を支援しながら、学生たちの社会奉仕活動を推進し、子どもたちの健全な成長を助けるための活動を熱心に指導した。毎年、聖心セツルメントの子どもたち100人以上を小林聖心のキャンパスに招いて生徒たちといっしょに過ごすピクニック・デイが恒例となっていた。学校から2、3分のところにあったバラ・ホームへ授業の合間に走っていって、子どもの世話をする学生もいた。
マザーブリットは、マザーマイヤーの社会奉仕に向けられた情熱を学生たちの行動に見る思いで、のちにこのように語っている。「この精神を、自分が最も崇敬していたマザー・マイヤーから習った……マザーは小林の山の麓でバラ・ホームをつくり、愛徳(姉妹)会のシスターを呼び、生徒たちをそこで手伝わせることにしました。こうして自分も多くの人を助けることができたし、生徒たちにも将来のため社会に対する責任を覚えさせました。」(H.チースリク「偉大な教育者に会ってーマザー・ブリットの思い出―」、聖心女子大学同窓会編『マザー・ブリット追悼録』1969年、p.36。)

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