企画展 いま、「女性」はどう生きるか ―キャリア・結婚・装い・命―

纏足てんそく−美の象徴だった小さな足

纏足ってどんな慣習?

纏足という言葉を聞いたことがありますか?纏足とは、前近代の中国で行われた、女性の足を布で縛り小さく変形させる慣習です。纏足は美と女性らしさの象徴でした。

纏足が実際に行われた証拠が残っているのは13世紀以降で、纏足を最初にしたのはエリート階級の女性でした。農作業に不向きな纏足は社会的地位の高さの指標の1つだったのです。17~18世紀になると、紡織の発達と木綿生産の普及を背景として、農民の娘たちも屋内労働をする機会が増え、競って纏足をするようになりました。

心を鬼にして
纏足を…

骨がまだ柔らかい少女の足のくるぶしから下を細長い帯状の布できつく縛り、小さく変形させます。少女たちは痛みに苦しみましたが、纏足は結婚の条件にもなったため、母親は心を鬼にして纏足を行いました。

三寸金蓮さんずんきんれん”の
美しさ?

“三寸金蓮”とは纏足の美の比喩。三寸は10cm弱、纏足した足の理想的な大きさを示しています。金蓮は、土を踏んでも清らかさを失わない纏足の足を、蓮の花が泥から出てきても汚れに染まらない様子にたとえています。纏足は、顔以上に女性の美の基準となっていました。

縛り方には地域差も

13世紀には官僚の妻や妓女が纏足していました。14世紀以降になると一般化し、地域によっては花嫁の必須条件とさえ考えられるようになりました。特に山西さんせい陝西せんせい甘粛かんしゅくでは貧しい女性でも纏足をしていました。一方、江蘇こうそなどの長江流域では比較的縛り方がゆるく、農村の女性には纏足をしない人が多く見られました。

  • 妓女=中国における遊女、もしくは芸妓

「小さな足は美しい」纏足てんそくが生まれた背景—

纏足には、小さな足を美しいとする概念が背景にありました。その歴史を見てみましょう。

3〜6世紀詩の中の女性美の描写で
足について言及

13世紀官僚の妻や娘たちが足を布で包み、
アーチ型の靴を履く

13〜15世紀「花嫁の謙虚さと勤勉の象徴」に

前近代中国の結婚は両親が決めるものでした。
両親が息子の嫁に求めるのは、婚家に馴染み、年長者を敬い、家を切り盛りすること。苦痛に耐えて小さな足を手に入れた女性は、そのような期待に応える、謙虚で勤勉な性質であると考えられました。

9世紀随筆『酉陽雑俎ゆうようざっそ』の中に中国のシンデレラ物語

世界各地にシンデレラ物語の変形版はありますが、最も古いシンデレラ物語は9世紀の『酉陽雑俎』という中国の本にあります。継母にしいたげられてきた娘が、祭で落とした小さな靴によって国王に見いだされるというお話です。小さい足を美としていたことが示されています。さらに、10世紀に栄えた南唐なんとうでは、窅娘ようじょうという宮女が足を布で縛ってアーチ状にカーブさせ、蓮の花の形をした台の上で踊ったという伝説があります。

17世紀なかば清朝しんちょうは纏足を禁止。しかし…!?

清代しんだいには、女性でも騎馬をたしなみとしていた満洲族が中国を統治しました。清朝の康熙帝こうきていは、1664年に纏足を禁止しましたが、漢族女性の纏足の風潮はやまず、4年後には禁止を撤回。また、満洲族の女性は纏足を禁止されていましたが、纏足へのあこがれから底の高い靴を履いておぼつかない歩みを模倣しました。

3〜6世紀詩の中の女性美の描写で
足について言及

9世紀随筆『酉陽雑俎ゆうようざっそ』の中に中国のシンデレラ物語

世界各地にシンデレラ物語の変形版はありますが、最も古いシンデレラ物語は9世紀の『酉陽雑俎』という中国の本にあります。継母にしいたげられてきた娘が、祭で落とした小さな靴によって国王に見いだされるというお話です。小さい足を美としていたことが示されています。さらに、10世紀に栄えた南唐なんとうでは、窅娘ようじょうという宮女が足を布で縛ってアーチ状にカーブさせ、蓮の花の形をした台の上で踊ったという伝説があります。

13世紀官僚の妻や娘たちが足を布で包み、
アーチ型の靴を履く

13〜15世紀「花嫁の謙虚さと勤勉の象徴」に

前近代中国の結婚は両親が決めるものでした。
両親が息子の嫁に求めるのは、婚家に馴染み、年長者を敬い、家を切り盛りすること。苦痛に耐えて小さな足を手に入れた女性は、そのような期待に応える、謙虚で勤勉な性質であると考えられました。

17世紀なかば清朝しんちょうは纏足を禁止。しかし…!?

清代しんだいには、女性でも騎馬をたしなみとしていた満洲族が中国を統治しました。清朝の康熙帝こうきていは、1664年に纏足てんそくを禁止しましたが、漢族女性の纏足の風潮はやまず、4年後には禁止を撤回。また、満洲族の女性は纏足を禁止されていましたが、纏足へのあこがれから底の高い靴を履いておぼつかない歩みを模倣しました。

少女時代から施された纏足てんそく

女性が幼い頃から纏足は行われていました。どのように足を小さく変形させていたのでしょうか。

女性たちが纏足を始める時期は5歳から8歳頃。右の手順のように足を折り込むようにして、細長い布で長期間縛ることで足裏に深い溝を作りました。

纏足を施すのは母親です。まず、娘に纏足の美しさを説いてあこがれを持たせます。最初に縛る時にはゆるめにしますが、その後は徐々にきつくし、痛がっても沢山歩かせ、心を鬼にして決して巻き布をゆるめません。

纏足を続け、足の形が整った12、3歳になると、娘自身も纏足の足が美しいと思うようになるので、娘自身に布を巻かせて、手入れをさせるようにしていました。

纏足の手順

1.足を洗い、揉む

足をお湯で洗い、揉みます。お湯の中に、足を柔らかくすると考えられていた薬を入れたり、指の間にミョウバンをふりかけたりすることもありました。

2.親指以外の指を巻く

親指以外の4本の指を持ち、足裏へ曲げます。指が完全に足の裏に折り込まれるよう、強い力をかけ、布で足裏に強く押しつけながら巻きます。

3.足全体を巻く

布を足先、かかと、足の甲、足の裏などに何度も巻きつけ、できる限りつま先とかかとを近づけるように固定し、最後に布を縫い合わせます。

“女性の資質を見る” 纏足てんそくの靴作り

纏足の靴はただの履き物というだけではなく、作る過程やデザインにも特別な意味がありました。

纏足用の靴は女性たちが自分たち自身で作るものでした。時には、針仕事の腕前を示すものとして、婚約先に贈られることもあり、家族やごく親しい女性の友人への贈りものにもなりました。素足は夫のみに見せるものであり、靴にも特別な意味合いがあるため、他人に作らせれば、慎みが足りないとして非難の対象になることもありました。

靴は綿や絹で作られており、靴の上部や側面、場合によっては靴底にまで繊細な刺繍が施されました。草花、蝶や鳥などの図柄のほか、夫の科挙合格を願い、科挙合格者の様子を描いた刺繍などもありました。

  • 科挙=中国で行われていた官僚の登用試験

纏足作りにはさまざまな道具が用いられました。
その一部を紹介します。

木製の靴底です。靴底まで布でできた靴もありましたが、このような木製の靴底を行商人などから買い、自作の布靴につけることもよくありました。

糸を引っ張るための木製の道具です。黒の漆塗りで、獅子の頭がデザインされています。

赤い漆塗りの木製糸巻きで、針を入れるための小さな引き出しがついています。

纏足てんそくは女性のアピールポイントだった?

纏足はさまざまな理由で魅力的とされ、それゆえに女性の人生を左右するものでもありました。

儒教の教えでは、女性は年頃になると家の中の女性専用の部屋にいることが望ましいと考えられていました。纏足をすると歩きにくくなり、家の門の外に出ることは難しくなりましたが、家の中にいて家事を取り仕切るのがしとやかな女性の理想的姿とされたのです。

纏足は男女を区別する最大の特徴であり、女性の魅力をアピールするポイントでした。婚礼の時に花嫁が細く小さい足で歩くのを見れば、婚家には喜びが溢れました。普段、夫は妻の足を長いスカートやズボンで隠させました。妻以外の纏足を見ることができたのは妓女と会うときで、小さな足で評判の妓女のもとには客が殺到しました。

  • 妓女=中国における遊女、もしくは芸妓

娘がいい家に
嫁に行けるように…

小さな足は女性の魅力と考えられました。貧しい家の女性が小さい足ゆえに裕福な男性に見初みそめられたという話もあります。娘の命運は嫁ぎ先に左右されたので、両親はいい嫁ぎ先を見つけようと心を砕きました。纏足によって少女は大きな苦痛を受けましたが、纏足をせずに嫁の貰い手がなければ、生涯にわたって辛い思いをします。そこで、母親は娘に纏足を施したのです。

経験談から読み解く“纏足てんそくへのあこがれ”

実際に纏足をしていた女性たちはどう思っていたのでしょうか。回想録から紐解きます。

林燕梅女士りんえんばいじょしの経験

彼女は清代しんだい末期の生まれですが、当時、女性は纏足を重んじていたので、4歳になったばかりの時から纏足を始めました。「母に足が小さいことを褒められて、私はとても得意だった」と彼女は思い出しています。纏足解放が叫ばれた時期に校長の職に就いた父親は、自分の立場を考えて、彼女に纏足をやめさせました。でも、彼女は纏足の布を解きたくないと思っていました。纏足の方が美しいと思っていたからです。当時の女性の纏足への考え方がうかがえます。

寧老太太ねいおばあさんの経験

纏足は裕福な家庭の娘だけがしていたわけでなく、地方によっては物乞いでさえも纏足であったといいます。彼女が幼い頃、家運は傾き、父は餅を売り歩いていましたが、両親は彼女に纏足を施しました。女性が美しいかどうかは足により決まり、結婚の際には顔以上に重視されていたためです。彼女は「仲人は“器量よし”かと聞かれず、“その子の足はどれくらい小さいか”と聞かれる。ただの顔は天性のものだが、みっともない纏足は根気のない証拠なのだ」と語っています。

纏足てんそくが足と身体にもたらす害

足を極端に小さく変形させる纏足は、身体にさまざまな悪影響をもたらしました。

纏足によって、親指以外の指は下に折り曲げられ、折り込んだ指のつけ根とかかとはできる限り近づけられます。それにより、足の甲がアーチのようにふくらみ、足の裏には非常に深い割れ目ができます。纏足によって足の靭帯じんたいと腱は曲げられ、さらに伸ばされ、骨の位置も変わります。

纏足をした女性は、ゆるゆるとすり足で歩きます。そのため、ヒップと太ももの筋肉が強化される一方、膝下から足首の間の筋肉は萎縮いしゅくしてしまいます。纏足をしていても、自分で歩けることが望ましいとされていましたが、きつく縛りすぎた結果、支えなしでは歩けなくなる人もいました。

反対運動と纏足てんそくの終わり

纏足にあこがれを持つ女性は多く、その慣習が完全になくなるには時間がかかりました。

1883年康有為こうゆうい不裹足会ふかそくかい
(不纏足会)を作る

漢族の政治家であった康有為は、自分の娘たちには纏足をさせませんでした。彼は、纏足に反対する不裹足会設立を試みましたが、失敗に終わりました。

1897年上海不纏足会しゃんはいふてんそくかいが発足

康有為の弟子である梁啓超りょうけいちょうが中心的役割を果たした上海不纏足会では、会員の娘は纏足をせず、会員の息子たちは、纏足をしていないと結婚できないのではという女性たちの心配をなくすため、纏足者を妻としないことを規定しました。

1937年日中戦争の影響で減少

纏足という慣習には地域差が大きく、場所によっては速やかに見られなくなりましたが、地域によっては根強く残っていました。日中戦争中には、纏足禁止運動が行われる余裕はありませんでしたが、戦乱時、なにかあっても走って逃げるのが難しい纏足は自然と廃れていきました。中華人民共和国建国後の1950年にも纏足禁止令が出されますが、その際にはすでにごく一部の地域だけしか纏足は残っていませんでした。

1895年アリシア=リトルが中国で天足会てんそくかいを作る

イギリス人女性作家のアリシア=リトルは、中国にいる西洋人を集め自然なままの足を意味する「天足」の会を作り、中国の知識人たちに纏足解放を訴えました。

1912年女子学生が増え纏足をほどく人が増加

清代しんだい末期から中華民国期にかけて設立された女学校は、纏足解放を提唱し、入学した女性の纏足をやめさせました。女学生は自然なままの足で街を歩いて通学し、スポーツにも打ち込みました。男子学生も纏足反対の教育を受けて纏足ではない女性との結婚を望むようになり、その風習は社会上層から廃れ始めました。

1883年康有為こうゆうい不裹足会ふかそくかい
(不纏足会)を作る

漢族の政治家であった康有為は、自分の娘たちには纏足てんそくをさせませんでした。彼は、纏足に反対する不裹足会設立を試みましたが、失敗に終わりました。

1895年アリシア=リトルが中国で天足会てんそくかいを作る

イギリス人女性作家のアリシア=リトルは、中国にいる西洋人を集め自然なままの足を意味する「天足」の会を作り、中国の知識人たちに纏足てんそく解放を訴えました。

1897年上海不纏足会しゃんはいふてんそくかいが発足

康有為の弟子である梁啓超りょうけいちょうが中心的役割を果たした上海不纏足会では、会員の娘は纏足をせず、会員の息子たちは、纏足をしていないと結婚できないのではという女性たちの心配をなくすため、纏足者を妻としないことを規定しました。

1937年日中戦争の影響で減少

纏足という慣習には地域差が大きく、場所によっては速やかに見られなくなりましたが、地域によっては根強く残っていました。日中戦争中には、纏足禁止運動が行われる余裕はありませんでしたが、戦乱時、なにかあっても走って逃げるのが難しい纏足は自然と廃れていきました。中華人民共和国建国後の1950年にも纏足禁止令が出されますが、その際にはすでにごく一部の地域だけしか纏足は残っていませんでした。

1912年女子学生が増え纏足をほどく人が増加

清代しんだい末期から中華民国期にかけて設立された女学校は、纏足てんそく解放を提唱し、入学した女性の纏足をやめさせました。女学生は自然なままの足で街を歩いて通学し、スポーツにも打ち込みました。男子学生も纏足反対の教育を受けて纏足ではない女性との結婚を望むようになり、その風習は社会上層から廃れ始めました。

出典
  • 高洪興(鈴木博訳)『図説 纏足の歴史』原書房、2009年
  • 関西中国女性史研究会編『中国女性史入門ー女たちの今と昔』人文書院、2005年
  • ドロシー・コウ(小野和子・小野啓子訳)『纏足の靴ー小さな足の文化史』平凡社、2005年
  • 姚霊犀編『采菲録』天津時代公司、1936年
  • アイダ・プルーイット(松平いを子訳)『漢の娘ー寧老太太の生涯』せりか書房、1980年
  • 東田雅博『纏足の発見―ある英国女性と清末の中国』大修館書店、2004年
同時開催