特別展示 丸木美術館 「原爆の図」が
未来に伝えること

ここに1冊の本があります。
1980年に出版された小さな画集『原爆の図』。
丸木 俊と丸木位里がなぜ30年以上かけて、
15作からなる「原爆の図」を描いたのか。
その思いと描き続ける原動力が、ふたりの言葉で綴られています。
あとがきには、こんなことが書いてあります。

 原爆やめて下さい、戦争やめて下さい、と、描きつづけて三十数年。
原爆はやまるどころか増えるばかりです。たくさんの国が原爆を持つようになりました。
大きいのや小さいのや、核弾頭とかミサイルとか、原子力潜水艦とか、という言葉が
毎日耳に入って来ます。
 いつ又、戦争が起きるかわかりません。どうしたらよいのでしょう。玉つきのゲームの
ように怨ちにひろがって、原爆で人々は傷つき死んでいくのでしょう。
 どうしたらよいのでしょう。

俊と位里は15部で終わりではなく、
この先も「原爆の図」を描くつもりだったといいます。

「原爆の図」の発表から70年以上がたった今。
核を増強する国が増え「第3の核の時代」といわれています。
そんな現代においてこそ「原爆の図」は新たな側面を持ち、
大きく響く存在となりました。

ふたりの問題意識を過去のものとして完結させるのではなく、
「原爆の図」の存在意義と未来に伝えること。
現代に生きる私たちが“なぜ戦争ははじまるのか”
“目の前の核の問題をどうしたらよいのか”を考えること。

丸木美術館の協力のもと展示します。

原爆の図丸木美術館とは

画家の丸木俊・丸木位里夫妻が、「原爆の図」を、誰でもいつでもここにさえ来れば見ることができるようにという思いを込めて1967年に埼玉県東松山市に建てた美術館です。

丸木夫妻は、原子爆弾が投下された直後の広島にいち早くかけつけ、戦後の米軍占領下、原爆被害の報道が厳しい検閲を受けていた時期に「原爆の図」連作を描きはじめました。そして日本全国を巡回し、公民館や寺院、学校の体育館などで展覧会を開催。被爆の実情を広く伝えました。
丸木美術館を建設してからは、作品を展示しながらすぐそばで暮らし、戦争や公害など、人間が人間を傷つけ破壊することの愚かさを生涯かけて描き続けます。
位里は1995年に94歳で、俊は2000年に87歳でそれぞれの生涯を終えましたが、その作品と意志は丸木美術館に受け継がれ、平和へのメッセージを発信し続けています。
ぜひ、丸木美術館を訪れ、『原爆の図』にはじまる丸木夫妻の長い共同制作の旅に思いをはせ、心に残るひとときを過ごしていただければ幸いです。

https://marukigallery.jp/

「原爆の図」は、縦1.8m×横7.2mもの大変大きな作品です。 1枚の紙に描かれているのではなく、横90cmの紙8枚にわけられ、現在は屏風絵として四曲一双(よんきょくいっそう:四曲=四つの曲がった箇所、一双=ペア)で構成されています。

「原爆の図」の第1部 幽霊、第2部 火、第3部 水が発表されたのは、1950年。 1945年から1952年のサンフランシスコ平和条約発効まで、日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下にあり、GHQのプレスコード(報道規制)により、原爆被害の報道は厳しく禁じられ、被爆者の写真を見ることもできませんでした。

そうした時代に、原爆の被害を多くの人に伝えるべく展覧会を開いたのです。

全国各地の百貨店や公民館、学校、寺などさまざまな場所を利用した巡回展が活発に行われました。 占領下にもかかわらず、100万人以上が見たといわれています。

当時は持ち運びや展示の利便性を考えて、8枚の画面をそれぞれ掛け軸に仕立てて巻き、長い木箱におさめて人力で持ち運びました。

展覧会は占領軍に反抗する行為として警戒され、弾圧の危険と隣り合わせであったため、いざとなったら絵を隠して逃げるという理由もあったようです。

映像「原爆の図 丸木美術館」(15分30秒)

この映像では、丸木美術館について、「原爆の図」を描くふたりの様子、
15部の図が描かれた背景や絵の詳細が紹介されています。

YouTubeからもご覧いただけます。

会場では、第9部「焼津」を展示しています。

原爆の図 第9部 焼津 丸木位里・丸木俊 1955年(後年に加筆) 水墨・彩色・木炭またはコンテ、紙 原爆の図丸木美術館

The Hiroshima Panels (IX) Yaizu Maruki Iri, Maruki Toshi 1955 (retouched later) Sumi ink, pigment, glue, charcoal or conté on paper Maruki Gallery for the Hiroshima Panels

1945年、ひろしまに人類はじめての原爆が投下されました。
続いて長崎にもう一発。
そうして、ビキニ環礁で人類初の水素爆弾が爆発しました。
焼津港から漁に出ていた第五福竜丸の船員は、
そこで死の灰をあびました。
久保山愛吉さんは、それから半年して亡くなりました。
日本人は三度、原爆水爆の犠牲となったのです。
【後記(1983年5月)】

日本人ばかりではありませんでした。
ビキニ環礁の近くのミクロネシアの人びとは、
水爆の死の灰をかぶりました。
島全体が汚染されてしまいました。
島を追われた人びとが、生まれ故郷ビキニへ帰った時、
残留放射能を受けてガンや白血病で倒れ、
傷つき、今も苦しんでいるのです。
焼津とビキニ。
それは宿命の兄弟となったのです。

焼津は、「ビキニ事件」への人々の怒りを描いた作品です。
1954年3月1日に、南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で、アメリカにより「ブラボー」と名付けられた水素爆弾実験が行われました。アメリカにとっては1952年に続く2回目の水爆実験。その爆発力は広島型原爆の1000倍もあったと近年の研究でわかっています。

この実験で被災した船は、日本政府の調べだけでも856隻にのぼります。近くで操業していた遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の乗組員23人は、巨大なキノコ雲を目撃、「死の灰」を浴び、深刻な被害を受けました。
(当時の米原子力委員会ストローズ委員長によると、放射性降下物(死の灰)は第五福竜丸の乗組員にとどまらず、アメリカ兵28人、マーシャル諸島の住民236人にも降り注いだと報告されています)

静岡県焼津に帰港した彼らはすぐに病院に運ばれましたが、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)は「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と最後の言葉を残して9月23日に亡くなりました。

ところが、実験から10カ月後の1955年1月。
アメリカ政府からの見舞金(7億2000万円)を支給された見返りに、日本政府は事件にかかわる問題はすべて解決済みにするとの立場を表明します。久保山さんが「水爆による犠牲者第一号」として亡くなっているにもかかわらず、事実上封印されたのです。

この事件に人々は怒り、大きな注目を集めます。東京・杉並から全国に広がった署名運動など原水爆反対への関心が高まりました。

2024年は、「ビキニ事件」から数えて70年。
大きな政治の力が働き、真実にふたがされる。
今も変わらないこの構図。
現代に生きる私たちは過去から学び、目の前で起きていることを見つめる必要があるのではないでしょうか。

読売新聞1954年3月16日朝刊より

「原爆の図」という絵のために画家自身が作った丸木美術館。
位里は1995年に94歳で、俊は2000年に87歳でそれぞれの生涯を終えましたが、丸木美術館は、「原爆の図」を大切に思う多くの人によってその後も支えられ、守り続けられています。
丸木美術館は、「原爆の図」の常設展示だけではなく、若い作家を迎え、独自の目線での企画展を精力的に行っています。

このケース内に展示しているのは、企画展のフライヤーと2001年より学芸員を務める岡村幸宣さんの日記の一部です。
位里と俊の意思を継いだ美術館として、未来へ伝えるべきことはなにか。
日記の行間から、私たちも模索し、行動することが見えてくるのではないでしょうか。

  • 日記の文章は、『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員作業日誌2011-2016』(新宿書房)より抽出しています。
2011年3月11日 東松山

 足もとが、大きく揺れた。
 四月から目黒区美術館ではじまる予定の、 「原爆を視る」展の図録原稿の手直しを終えて、珈琲を入れたところだった。美術館が小さな悲鳴のような音を立てた。
悲鳴は次第に大きくなって、やがて建物全体が、きしみながら揺れはじめた。
 あ、地震。
 珈琲を飲む手を止めて、揺れがおさまるのを待った。建物のきしむ音は激しさを増していった。お客さんを外へ誘導しなければ。廊下に出ると、みんな出口に向かって、急ぎ足で歩いてきた。
 いったん揺れがおさまったところで、館内をまわった。 「原爆の図」も気になったが、まずは企画展のベン・シャーン《ラッキードラゴン・シリーズ》を確認する。
 一九五四年三月、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験によって、静岡県焼津港のマグロ漁船・第五福竜丸の乗組員二三人が、降り注いだ放射性降下物「死の灰」を浴びて被爆した。ニュースは国内外に大きな衝撃を与え、原水爆禁止運動が広がっていく契機となった。位里と俊は、原爆の図第九部《焼津》と第一〇部《署名》を描いた。ベン・シャーンは、雑誌『ハーパーズ・マガジン』に核物理学者ラルフ・ラップが掲載したルポルタージュ(邦訳『福竜丸』 八木勇訳、みすず書房、一九五八。ただし同書には挿絵はない)のための挿絵を描いた。太平洋の両岸から、目に見えない脅威を見つめようと試みた画家の視線を交錯させることが、企画展の目的だった。丸木美術館の予算では、海外から絵画を運んでくることはできない。それでも、首都圏近郊の所蔵先からは、思いのほか多くのペン画のシリーズが集まり、展覧会は成立した。
 五日前、元第五福竜丸乗組員の大石又七さんと、詩人のアーサー・ビナードさんを迎えて、トークイベントを行った。
 誰もが被爆者になる世界を生きている。大石さんは警鐘を鳴らした。
 私たちは皆、第五福竜丸に乗っている。アーサーさんは予言めいた言葉で応えた。
 ベン・シャーンの絵は異常なし。「原爆の図」も異常なし。

2012年7月12日 東松山

 丸木美術館の年間の個人有料入館者の約四割は、六月から八月に集中する。戦争の犠牲者への追悼の思いを抱いて訪れる人も多い。そのため、これまでの夏の企画は、比較的高めの年齢層を意識した、戦争の記憶を伝える内容が中心だった。
 けれども「3・11」のあと、いくつか企画した核をめぐる展示は、いずれも反響が大きかった。「原爆を視る」展の中止をはじめ、ほかの多くの美術館は、原爆や原発の問題を避けているように見えた。現在進行形の切実な問題であるにもかかわらず、「公」的な施設が自主規制に向かうなら、今、丸木美術館に必要な企画は、芸術というアプローチから核問題を見つめる展覧会ではないか。それも、できればこれまであまり取り上げてこなかった、若い世代の表現を紹介してみたい。「3・11」のあと、社会に対峙する若者たちの精力的な活動は、次々と目に入ってきている。
もちろん、核を主題にすればそれでいいというわけではない。観る者に説得力を感じさせる表現であることは重要だ。事前に何度も展示を観て、作家と顔をあわせ、信頼関係を構築する必要もある。
 そんなことを考えながら、思いきって、一九七八年生まれの新井卓さんに声をかけた。彼は個展の開催を快諾し、「MIRRORS HALF ASLEEP」とタイトルをつけた。
 銀板写真は、自然光のもとでは、ただの鏡のようにしか見えない。そのため、二日がかりで展示室の天窓をふさぎ、光を遮断した。すべての銀板の前に電球を吊る。
センサーがついているので、人が近づくたびに、闇に小さな光が灯る。すると、鏡面に秘められた光景が、魔法使いの秘術のように浮かび上がった。一日一枚、写真家が時間をかけて撮影した、東北の自然や街や生きものたちの記憶。原発事故の前とは、一見それほど変わらないようで、何かが決定的に変わってしまった光景。
 美術館の閉館時間が過ぎ、東の空に天の川が見えはじめる頃、展示作業はようやく終わった。展覧会は明日から開幕する。美術館を訪れる人たちに、彼の仕事はどう届くか。ささやかな新しい試みに、期待と不安が入り交じる。


2016年4月11日 東京

 東京の如水会館にて、第四一回木村伊兵衛写真賞授賞式。
 審査員の石内都さんが、今年の受賞者は最初から新井卓さんしかいないと強く推していた、と挨拶をした。それは無敵の援護射撃だっただろう。都立第五福竜丸展示館の山村茂雄さん、安田和也さんも、笑顔でならんで記念撮影。
 数日前に、新井さんから祝辞を頼まれていた。少し緊張しながら、マイクの前に立つ。会場はざわついているが、言うべきことを言うのみだ。
 ダゲレオタイピストに祝福を。真実を求める者に、幸いあれ。

裏面は、こちら
2013年3月3日 東松山

 丸木美術館で、若い世代の展覧会が続く。彼らは「3・11」を機に芸術と社会の関係を考え、「原爆の図」に、自分たちの先達のような親近感を覚えているようだった。作家だけではない。彼らの展示を観に来る若者たちも、「原爆の図」と出会って、少なからず影響を受けているように見えた。
 今日からはじまる企画展は、未来美術家と名乗る遠藤一郎くんの個展。彼は、黄色地に青で「未来へ」と書いた車で旅をしながら、前向きなメッセージを発信し続けている。「3・11」のあとは、被災地支援のために、たびたび東北へ足を運んでいた。
 彼が初めて丸木美術館に来たのは、 二年前のChim↑Pom展の最終日だった。そのときは自主的にお客さんを「未来へ号」に乗せて、駅と美術館を一五往復もしてくれた。
  最初に森林公園駅に着いた途端、彼の車に一人のタクシー運転手が駆け寄って来たそうだ。何しろ初めての土地だ。どんな言いがかりをつけられるか、わからない。
遠藤くんはとっさに身構えた。ところが運転手は岩手県の南三陸町の出身で、震災後に、被災した高齢者たちを紅葉狩りに連れていく遠藤くんの姿を目撃していた。
そして、遠く離れた埼玉の地で、偶然「未来へ号」に再会した途端、ひとこと礼を言いたくなって、思わず駆け寄ってきたのだという。そんな話を聞きながら、展覧会の準備が進んでいった。

2014年9月13日東松山

「ビキニ事件」から六〇年の記念企画は、第五福竜丸とゴジラをテーマにした展覧会。初日に、長沢秀之さんと「想像力としてのゴジラの復活」と題して対談をする。
 長沢さんは、一九五四年の映画『ゴジラ』を「大きいゴジラ」とし、二〇一一年の東京電力福島第一原発事故で私たちのまわりに無数の「小さいゴジラ」が生まれたという発想のもとに、これまで、小平市内の中学校と川越市立美術館で、ワークショップと展覧会を企画してきた。
 川越では、わが家の子どもの通う小学校でもワークショップがあったので、どんな展覧会かと見に行ったら、予想以上に刺激的な内容で、驚いてしまった。油絵や立体造形、映像、イラストレーション、漫画、写真、フィギュアといった多様な手法で、長沢さんや美大生、小学生たちが、「3・11」後の日常に想像力を広げてゴジラを表現している。メルトダウンしていく無数の小さなゴジラ、放射能防護服を連想させるゴジラの抜け殻、私たちを見つめているかのようなゴジラの「眼」……。
展示の合間には、ゴジラがいかに戦争や核、自然環境など、われわれの社会の問題を背景に生まれてきたかということを、評論家たちの言葉や年表を掲示して浮がび上がらせる。こんな展覧会なら、ぜひ丸木美術館でやってほしい。そう思って長沢さんに連絡をとり、アトリエを訪ねたのだった。
 なぜ二〇一一年に原発事故が起きてしまったのか、大人には説明責任があるんですよ。それを語るのに、ゴジラは媒介になる。年配の人がもっている歴史と、それを知らない若い人や子どもたちがゴジラでつながるんだよね。
 対談の席で、長沢さんは、展覧会に込めた思いを語った。
 でもね、丸木美術館には何度も来ているけど、ここでこんな楽しい展示をやっていいのかな、と迷ったんだよね。
 そう言ってニヤリと笑う長沢さんに、楽しいことはどんどんやっていきたいんで すけどね、と苦笑しながら答える。

2014年11月2日 東松山

 アーサー・ビナードさんの講演会「やわらかい はだ―原爆の図は本当に原爆を描いているのか」を開催。会場は満席。
 「原爆の図」をもとに独自の物語を編んだ新作紙芝居の準備を進めているアーサーさん。一九九〇年代に「原爆の図」を初めて見たときの衝撃は、「見る」ではなく、「巻き込まれる」体験に近かったという。その感覚は、来日して初めて体験した紙芝居の感覚につながると考えたそうだ。
 「原爆の図」の人物は、絵を見る私たちとほぼ同じ大きさであり、息づかいや肌触りが伝わってくる。「見る」だけでなく「見返される」。現場に分け入っていく体験は、まさに「紙芝居だ」……。
 あるとき、童心社の酒井京子会長に「原爆の図は巨大な紙芝居なんだよ!」と話したところ、「では、いまの絵本(当時は原爆による死者たちの遺品の声を聞く『さがしています』を制作中だった)ができあがってから、紙芝居をつくってください」と約束することになったという。
 「原爆の図」と紙芝居を結びつける発想は、新しいわけではない。「原爆の図」は語りとともにある絵だし、全国を巡回して原爆の惨状を伝えた活動と紙芝居の類似を指摘する声は、以前からあった。しかし、「原爆の図」を紙芝居にしようと考えたのは、おそらくアーサーさんが初めてだ。なにしろ、画面のサイズが、あまりにも違い過ぎる。
 アーサーさんは、「原爆の図」を部分的に切りとって構成した紙芝居を、実際に観客の前で演じてみせた。 著作権者の丸木ひさ子さんの許可を得ているとはいえ、大胆な試みだ。果たして実験は、成功するのか。どうせ「原爆の図」に挑むのであれば、誰もが思いもよらないほど遠くに飛んで、宙返りを決めてほしい。なぜなら、詩人は曲芸をするものだ。
 紙芝居は、まだ試作段階。観客の反応は悪くなかったが、詩人アーサー・ビナードの「作品」になるまでは、もう少し、時間がかかるかもしれない。

2015年1月5日 川越

 丸木美術館の学芸員になってから、ずっと気をつけてきたのは、「反戦」や「平和」という言葉を安易に使わないことだった。もちろん「原爆の図」は歴史的にそうした言葉を背負ってきたし、いまも 「反戦平和の象徴」と見られることも多い。
だからこそ、わかりやすい言葉に寄りかからず、自身の考えを「絶対化」せずに、思考を開いていく作業が大切だろう。
 今年は「原爆の図」の米国巡回展が実現する。寄付金も順調に集まっている。その呼びかけをして、展覧会の意義を話しているうちに、いつの間にか自分が、米国に「正義」を伝えに行く使命を背負っているような錯覚に陥ってはいなかったか。
 「被爆七〇年に核兵器廃絶を訴える」と言ってしまえば簡単だが、こうした言葉に収束されない意味を、どう見出すことができるだろうか。
 本当はアメリカじゃなくアジアをまわる方が良いのではないか、という意見を伝えてくれる人もいた。たしかに、それは複雑で刺激的な試みになるだろう。けれども今回は、米国に行かなければならない。
 せめて「原爆の悲惨さを表面的に受け止め、分かった気に」ならないように。 「被爆七〇年」を乗り越えていきたい。