文化人類学者 ① 岩原紘伊 Iwahara Hiroi
バリに調査で訪れてから15年以上。
調査のたびに、バリの新しい側面を発見し、知りたいことが増えています。
異文化に触れることに喜びを感じていただけたら嬉しいです。
東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻修了。博士(学術)。専門は文化人類学。日本学術振興会特別研究員(PD)、聖心女子大学現代教養学部専任講師を経て、現在立教大学観光学部交流文化学科准教授。2009年に博士課程に進学し、バリ島でエコツーリズムに関する調査を環境NGOの活動に注目しながら進めてきた。最近は信仰と環境運動の交錯にも関心を寄せている。
所属立教大学観光学部交流文化学科/聖心女子大学グローバル研究所客員研究員/聖心女子大学非常勤講師
専門文化人類学 観光研究
調査地インドネシアを中心とする東南アジア
おもな業績『村落エコツーリズムをつくる人びとーバリの観光開発と生活をめぐる民族誌』,風響社,2020年7月(単著)、「観光―文化が観光によって創られる?」,『東南アジアからまなぶ文化人類学』箕曲在弘、吉田ゆか子、二文字屋(編)pp.259-276(分担執筆)昭和堂,2024。
論文“Search for Sustainability: The Transformation of Japanese Perceptions of Bali in the 21st Century” The Asia Pacific Journal of Anthropology 26(4)362-380.(2025)
「インドネシア・バリの文化的景観―世界遺産とコミュニティのレジリエンス」『文化人類学』85(2)290-307.(2020)
「楽園」の島バリ
インドネシアにおける宗教と人々の暮らしを理解するための現場として、まずバリ島に注目してみましょう。
バリ島は、人口約430万人が暮らす、日本の愛媛県ほどの面積をもつ島です。バリの観光開発はオランダ植民地下の1920年代まで遡ります。当時バリを訪れた西洋人による写真や旅行記を通して、現在のバリの代名詞ともいえる「楽園」のイメージが広まりました。
本格的な国家主導の観光開発は1970年代に開始され、1980年代後半以降に大きく拡大しました。やがてバリの観光開発は、インドネシアにおける経済開発の重点政策の一つとなります。バリ島は日本人にもなじみ深い観光地となり、今日、年間約600万人の国際観光客が訪れています。
観光地バリの人気を支えている要因の一つは、インドネシアでは宗教的少数派にあたるヒンドゥー教に基づく芸能や儀礼といった文化的実践です。ビーチの風景とともに、煌びやかな衣装をまとった人々の舞踊やガムラン演奏は、観光地バリを象徴するアイコン的存在となっています。
バリ島はインドネシアにおける宗教を考えるうえで、大変興味深い場所です。というのも、インドネシア全体ではイスラーム教徒が圧倒的多数を占めていますが、バリ州(バリ島とその周辺の小さな島々を含む行政単位)ではその構図が反転し、人口の大多数がヒンドゥー教を信仰しています。その点でバリ島は、インドネシアのなかでも特異な宗教的性格をもつ地域であるといえるでしょう。
バリにおけるヒンドゥー
バリの人びとの宗教実践を見る前に、ここで確認しておきたいことがあります。ヒンドゥー教と聞くと、多くの方はまずインドで実践されているヒンドゥー教を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、バリ島のヒンドゥー教は共通点を持ちながらも、まったく同一というわけではなく、「バリ・ヒンドゥー」と呼ばれる独自の信仰体系です。カースト制度(高位から順にブラフマナ、クシャトリヤ、ウェイシャ、スードラの4つ)もありますが、インドのように不可触民はおらず、また職業とも関係はありません。
インドの宗教文化であるヒンドゥー教や仏教は、紀元後初期に東南アジアへ伝わり、この地域の信仰に大きな影響を与えました。現在までバリ島で息づくヒンドゥー教の影響は、8世紀ごろにバリで見られるようになったといわれています。一方、今日、バリの人口の多くが信仰しているバリ・ヒンドゥーは、東ジャワで13世紀から15世紀にかけて栄えたマジャパヒト王国において形成されたシヴァ=ブッダ観念(ヒンドゥー教のシヴァ神と仏教のブッダを同一視する思想)に大きな影響を受けているとされます(山口 2019)。ヒンドゥーを基盤とする国家として発展したこの王国は、15世紀に衰退し、多くの人々がバリに移住したことによって、宮廷文化やガムラン音楽、舞踊が伝わりました。一方、バリ・ヒンドゥーが伝わる前もバリは無人島ではなく、人が暮らしていました。バリ・ヒンドゥーが入ってくる前の信仰を維持している人々は今日、バリ・アガやバリ・ムラと呼ばれ、いわば先住民のような存在と見なされています。
バリには、バリ・ヒンドゥーにおいて最も重要な寺院であるブサキ寺院があります。しかし、人びとの宗教実践の中心は、デサ・アダット(慣習村)にあります。アダットはアラビア語に由来する言葉で、日本語では「慣習」と訳されます。各慣習村には独自の慣習法があり、儀礼から土地の権利に至るまで多岐にわたって村落の生活を規律づけています。バリには約1,500のデサ・アダットがあり、それぞれが独自の慣習法によって運営されています。
また、各デサ・アダットには、祖先を祀るプラ・プセ、村の守護寺院であるプラ・デサ、そして死者や浄化にかかわるプラ・ダルムという三つの寺院があり、慣習村の儀礼生活の中心をなしています。また儀礼の日程を決める暦は、独特です。バリ・ヒンドゥーの宗教実践はウク暦(ジャワからヒンドゥー教が伝わって以来の暦、1年は210日)およびサカ暦(ジャワからヒンドゥーが伝わる前からあったとされる太陽暦と太陰暦を組み合わせた暦、1年は355日程度)にもとづいています(詳しくは五十嵐(2008)を参照のこと)。儀礼や祭礼では、ブラフマナ出身のプダンダという高僧やプマンクーという僧侶が欠かせなかったり、新月や暗月などバリ・ヒンドゥーに共通して行われる実践もあったりしますが、寺院の周年祭などの儀礼の日取りは村ごとに異なります。つまり、バリ・ヒンドゥーであっても、その宗教実践は決して画一的ではありません。
さらに重要な点として、デサ・アダットの正式な成員となることができるのは、基本的にバリ・ヒンドゥー教徒に限られています。インドネシア語は公用語ですが、デサ・アダットでのコミュニケーションはバリ語が用いられ、バリ語を母語とするヒンドゥー教徒は自らを「バリ人」と認識してきました(この展示で示すように「誰がバリ人か?」という問いの答えは、実際そう単純ではありません)。
もちろん都市部を中心に、地域社会にはバリ・ヒンドゥー以外の宗教に帰属する人びとも暮らしていますが、そうした人びとは慣習村の成員にはなりません。なお、同じ地域に暮らすイスラーム教徒やキリスト教徒は、オランダ植民地時代に設置された行政村という行政組織に帰属します。行政村は地方行政機構の末端組織であり、転入などの人口管理や各種行政プログラムの受け皿となっています。
バリの地域社会の基本構成
- まるその土地の伝統的な慣習を意味し、文化から法といった制度的規範まで含む
- 民族としてのアイデンティティに関わる
バリ島における暮らしのなかの宗教
バリを訪れると、ヤシの葉で作られた入れ物に色とりどりの花が飾られている供物をあちこちで見かけます。また、ウク暦で6ヶ月に一度めぐってくる祖先をお迎えするガルンガン・クンニガンの時期は、各屋敷地の前にペンジョール(竹の装飾)が飾られ、独特の光景が広がります。
バリには、たくさんのヒンドゥー寺院がありますが、バリ・ヒンドゥーの自宅には、サンガー(Sangah)と呼ばれる家寺があります。バリの伝統的家屋は、アスタ・コサラ・コサリという建築用法にもとづき、敷地内のレイアウトが決められています。バリの人々は、家寺や台所、敷地の門など決められた場所に毎朝お供えをします。お供えをする際には、上着は自由ですが、腰布(サロン)を巻き、腰紐(スレンダン)をつけなければなりません。
また、寺院での儀礼だけではなく、近年は友人・知人の結婚式、公的な集会でも慣習服を身に着けます。慣習服はバリの人々にとっての正装です。もしかすると、バリ・ヒンドゥーの人々が何かしらの慣習服を身につけない日はないのかもしれません。
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供物(チャナン)を作るバリ人女性。
宗教と共生をめぐる危機
バリの人口の圧倒的多数はバリ・ヒンドゥーですが、なかには古くからバリに暮らすイスラーム教徒もいます。バリでは9世紀ごろから王国が成立し始めたとされていますが、14世紀ごろバリの王にジャワから同行してバリにやってきたイスラーム教徒がバリのイスラーム・コミュニティの始まりとされています。イスラーム教徒たちはバリ・ヒンドゥーのデサ・アダット(慣習村)と同様に地域共同体(カンプン)を形成し、バリ・ヒンドゥーと隣り合わせで何百年も暮らしを営んできました。彼らもバリ語の話者であり、ヒンドゥーではありませんが「バリ人」というアイデンティティを持っています。
こうした何世代にもわたりバリで暮らしてきたイスラーム教徒がいる一方で、観光を通じたバリ経済の発展は、1990年代以降、他島から多くの国内移住者を引き寄せ、急激な人口変動が起きました。バリ・ヒンドゥーの人々は、自分たちの文化がインドネシアの人口からすると圧倒的多数派であるイスラーム教徒に脅かされるのではないかと危機感を覚え、宗教間の緊張が高まりました。こうした状況のなか、2002年に南部観光地クタでナイトクラブを標的とした爆弾テロ事件が起きます。外国人観光客を中心に約200名が犠牲となりました。
テロ事件を起こしたのは、ジャマ・イスラミアというイスラーム教過激派組織であり、この事件によってバリ・ヒンドゥーとイスラーム教徒の暴力を伴う衝突が生じることが懸念されました。しかし、バリ・ヒンドゥーは危機を宗教の問題としてではなく、自らが行き過ぎた観光開発を進めた結果、「神の怒りを買った」と理解し、実際には衝突は起きませんでした。
ここで注意していただきたいのは、宗教にかかわりなく、バリに暮らす人びとのあいだには日常的な交流があるという点です。個人的な付き合いにおいて、宗教を理由に忌避されることはほとんどありません。しかし一方で、宗教を集団として見た場合、バリ・ヒンドゥーがイスラーム教徒の増加を全面的に歓迎しているわけではありません。島の宗教人口構成の変化は、いまも社会的な不安として存在しています。
寛容(Toleransi)の再強調
バリ島南部の観光地ヌサドゥアにあるプジャ・マンダラ(Puja Mandala)は、宗教的寛容を象徴する施設です。1997年に完成したこの施設には、モスク、ヒンドゥー寺院、カトリックおよびプロテスタント教会、仏教寺院(儒教は公認前であったためなし)があり、様々な宗教を信仰する人々が訪れる観光地バリの寛容性を示す場所として語られています。
しかしその一方で、宗教をめぐる社会的分断という現実も指摘されるようになっています。近年、多宗教国家インドネシアでは「寛容性(toleransi)」という言葉が頻繁に聞かれるようになっています。2002年の爆弾テロ事件以前、インドネシアのイスラーム教は国際的に「穏健派」というイメージで語られてきました。しかし2000年代初頭、爆弾テロ事件や宗教間の抗争が相次ぎ、宗教に起因する暴力が社会問題となっています。それは、「多様性の統一」を掲げてきた国家理念と緊張関係を生む出来事でもありました。独立以来培われてきたインドネシアのイメージは、少なからず揺らいだのです。2024年の大統領選挙においても、宗教指導者らは国民に対し、寛容と多様性の尊重を呼びかけました(井澤 2024)。
こうした出来事だけを見ると、インドネシア社会は不寛容へと傾いているように見えるかもしれません。しかし、日常の場に目を向けると、そこには宗教や文化の違いを越えて築かれる関係や共存の実践が存在しています。
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ヌサドゥアにあるプジャ・マンダラ。ヒンドゥー教寺院、教会、仏教寺院が見える。
観光地バリで促される共生のあり方
審査員には観光専門のジャーナリスト(イスラーム教徒の女性)も加わる。(撮影:岩原紘伊)
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バリ・ヒンドゥーの総本山ブサキ寺院を訪れる観光客。
バリは国際観光地です。観光は平和でなければ基本的に成り立ちません。その土地が不安定であれば、観光客は訪れず、現地での移動や交流も困難になります。実際、2002年にバリ島で爆弾テロ事件が発生した際、1980年代以降増加を続けていた国際観光客数は大幅に減少し、観光地は一時ゴーストタウン化しました。観光客の減少は、地域経済に深刻な影響を及ぼします。
しかし、観光の意味は経済的側面だけではありません。第二次世界大戦後、復興が進むなかで国際観光は広がり、1967年には国際連合が「国際観光年」を定めました。そのスローガンは「観光は平和へのパスポート」でした。観光は楽しみであると同時に、異文化に直接触れる機会でもあります。戦争の悲劇を繰り返さないための相互理解の手段として、観光は位置づけられてきたのです。
インドネシアでは先述のように、近年、宗教的不寛容の動きが顕在化しています。そうしたなかで、国内では宗教的少数派であるヒンドゥー教徒のあいだで、長年共生してきたイスラーム教徒との関係に改めて注目する動きが見られます(吉田および増野の展示)。それは、観光地バリの平和を維持するための模索でもあります。
バリでは、ガムラン音楽や舞踊といった芸能は儀礼に不可欠であると同時に、重要な観光資源でもあります。宗教的要素を持ちながらも、バリの芸能は観光を通して他者が触れることのできる文化となっています。
もちろん、観光が宗教と共生をめぐる課題を解決するわけではありません。しかし、観光は異なる人びとが出会う場を生み出し、相互理解のための一つの回路となりうるのです。
バリにおける
ヒンドゥー教の多様性
バリ観光のパンフレットをめくると、バリの先住民的存在としてバリ・アガ(しばしばバリ・ムラとも呼ばれる。ムラはサンスクリット語のmūlaに由来し、「根源」や「起源」を意味する)と称される人々についての記述に出会うことがあります。
これまで、バリの文化をめぐる語りは概して島の南部中心的であることが研究者によって指摘されてきました。現在、バリ人の信仰として主流とされるバリ・ヒンドゥーは、マジャパヒト王国が成立して以降ジャワからバリにもたらされた宮廷的・儀礼的伝統の影響を強く受けつつ形成されたと理解されており、主としてバリ島南部の平地部で展開されてきました(Hauser-Schäublin 2004)。しかし当然ながら、マジャパヒトの影響以前からバリ島には居住者がおり、8世紀頃からすでにヒンドゥー・仏教的影響を受けていたと考えられています。
マジャパヒト王国の衰退・滅亡を契機に、ジャワからバリへの人々の移動が進みました。その過程で、ジャワの宮廷文化の影響を強く受容した人々がいた一方で、それを全面的には受け入れず、それ以前から続く慣習や信仰実践を相対的に強く保持し続けた村落も存在しました。今日、バリ・アガと称される村落の多くは、そうした歴史的背景を持っています。
バリ・アガの人々の儀礼
もっとも、バリ・アガと分類される村落の宗教実践や社会組織、文化的慣習は一様ではありません。独自の文化的特徴を保持している場合であっても、ごく一部を除いて外部に閉じた共同体ではなく、バリ島内で優勢であるバリ・ヒンドゥーの影響をその実践の中に見出せることも少なくありません。したがって、バリ・アガとは、ジャワの宮廷文化を全面的には受容しなかったという歴史的特徴を共有するゆるやかな総称であり、文化的に単一の集団として括ることはできない点に注意が必要です。
バリ・アガというカテゴリーは、いわばグラデーションのようなものであり、その境界を明確に画定することは困難です。ただし、自らのコミュニティをバリ・アガとして位置づけ、対外的に発信している村落もいくつか存在し、それを手がかりとするならば、そうした村落は主にバリ島東部および北部山間部に見られます。とりわけ北部地域の一部では、宮廷文化を背景とする南部中心のバリ・ヒンドゥーに対し、前近代的で粗野な存在として周縁化されてきた歴史もあります(Hauser-Schäublin 2004)。しかし近年では、「前近代的」とされた特徴が「真正性」や「本来的なバリ」を体現するものとして再評価される傾向も見られ、かつての否定的なまなざしは部分的に反転しつつあります。
こうした状況のもと活発になっているのが、バリ・アガとして自らの文化を記録しようという若い世代の試みです。ここで紹介するのは、筆者(岩原)に加え、バリ島東部トゥガナン・プグリンシガン村のリオ・ウェドヤナ氏とバリ島北部プダワ村のワヤン・サドヤナ氏によって撮影された写真です。
トゥガナン・プグリンシガン村
トゥガナン・プグリンシガン村は、最も有名なバリ・アガの村の一つです。同村落において調査を行った野澤暁子(2015)によれば、その歴史は10世紀頃まで遡ることができ、村内婚や独特の信仰文化をもっています。信仰文化に関してはいくつかの説明がありますが、野澤は水信仰、石信仰といった自然崇拝的要素、ヒンドゥー的要素としてインドラ神信仰がみられるといいます(野澤 2015:96-105)。バリ・ヒンドゥーは、シヴァ神信仰の一形態であるため、同じヒンドゥーといっても別の信仰形態と理解されています。さらには、マジャパヒト文化の影響や現代のバリ・ヒンドゥーによる影響も指摘されています。つまり、トゥガナン・プグリンシガン村は独自の信仰を守りつつ、外部の影響も受け入れてきたのです。
野澤によれば、トゥガナン・プグリンシガン村が観光を受け入れ始めたのは、1970年代ですが、自らの文化に村人たちが関心を高く持ち始めたのは2002年・2005年のバリにおける爆弾テロ事件がきっかけです。この事件はトゥガナン・プグリンシガン村に限らず、バリ人自身にバリ文化の保全・継承や持続可能な観光を意識させるきっかけとなりました。トゥガナン・プグリンシガン村においては、バリのなかでも固有のバリ・アガとしての文化を保全・継承のための活動が始まっています。
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グリンシンと呼ばれる経緯絣(たてよこがすり)の布を制作しているところ。長く使えば使うほど、色に深みがでる。
トゥガナン・プグリンシガンでの儀礼
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ナディアン・タウンという儀礼。3年ごとに行われる儀式で、村の女の子たちが寺院を巡りながら祈りを捧げ、聖歌を歌う。
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マトゥラン・バタン・チャギと呼ばれる儀礼。村の住民が特定の月に行う儀式で、村の南部に位置する寺院で午前中に祈りがささげられる。
プダワ村
プダワ村は、バリ島北部の山間部にある村です。トゥガナン・プグリンシガン村のように観光地としてすでに知られている村ではありません。また、同じバリ・アガといってもトゥガナン・プグリンシガン村と異なり、バリ島北部のバリ・アガ村落は、とりわけ異質な存在とみなされてきました。私がバリ島南部出身のバリ人の友人に北部のバリ・アガ村落を訪れると話すと、「ここ10年ほどで変わってきているけど、性格が荒っぽい人々が多く住むので近寄りがたい地域だった」という言葉が返ってきたこともあります(実際はそのようなことはありません)。
プダワ村でも、バリ・ヒンドゥーとは異なり、葬儀は火葬ではなく、土葬で行われます。また、村の統治システムも独特であり、結婚を機に慣習組織に入り、役割を持ちます。特定の親族が政治的権力を持つということはありません。バリ・ヒンドゥーにみられるカーストはなく平等です。
バリ島北部のバリ・アガの人々をめぐる認識は、観光を通じて今日大きく変わりつつあります。プダワ村では2024年から村の伝統を次世代に継承するため、慣習学校が設立されました。若い世代が子どもたちとともに伝統的知識、儀礼の伝承に取り組んでいます。2025年には独特な文化をより多くの人に知ってもらうため、住民主体の観光が始まりました。プダワ村の文化を学びに多くの人びとが訪れるようになっています。
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水源は、プダワ村の人々の信仰の基礎となっており、保全活動が進められている。近年は外部の視察も受け入れている。
プダワ村における儀礼
バリスは、「トゥルナ(Teruna)」と呼ばれる村の青年グループによって踊られる神聖な舞踊です。彼らは伝統的な儀式において非常に重要な役割を担っています。このバリスの踊り手たちがいなければ、儀式は完璧なものとはいえません。
ガンキッドは、プダワ村における最も大きな伝統儀式の一つです。この儀式は5年に1回行われます。ガンキッドは、「持ち上げる」や「引き上げる」を意味する「アンキッド(angkid)」という言葉に由来しており、亡くなった人の魂を浄化することを意味しています。儀式はプンアンキダン川で行われます。プダワの人々は、この川が亡くなった人々の魂が子孫によって引き上げられ、清められる前に、魂を鍛える場所であると信じています。
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ルジャンは、サバの儀式の際に踊られる神聖な舞踊の一つです。この舞踊は、「ダア」と呼ばれる少女たちだけが踊ることが認められています。彼女たちはプダワ村のあらゆる儀式において非常に重要な地位を占めています。ダアの存在なしで、儀式を執り行うことはできません。
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サバは、プダワ村において非常に重要な儀式の一つです。この儀式は寺院(プーラ)で行われ、「ルリンティー(lelintih)」と呼ばれる儀礼サイクルに基づいて開催されます。サバの儀式は、一つのサイクルを終えるのに約5年間かかります。儀式に、プダワ村の全住民が、伝統的な社会構造におけるそれぞれの役割や地位に応じて参加します。
サンピ・グルンブガンは、バリ島ブレンレン県を象徴する伝統行事です。1910年代以前から始まり、豊作を感謝し、願う意味が込められています。この伝統行事では、大きな木製の鈴(グルンブガン)を首にかけ、美しく装飾された一対の牛が登場します。速さを競うのではなく、動きの美しさを競うのが特徴です。プダワ村では、現在も農家によってこの文化が大切に守り続けられています。
参考文献一覧
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石澤良昭・生田滋(1998)『世界の歴史 13 東南アジアの伝統と発展』中央公論社。
加納啓良(2012)『東大講義東南アジア近現代史』めこん。
長津一史(2012)「コラム インドネシアの2000年センサスと民族別人口」『民族大国インドネシア 文化継承とアイデンティティ』鏡味治也(編)pp.37-48. 木犀社。
野澤暁子(2015)『聖なる鉄琴スロンディンの民族誌 : バリ島トゥガナン・プグリンシンガン村の生活、信仰、音楽』春風社。
長谷千代子 [ほか] 編(2021)『宗教性の人類学 : 近代の果てに、人は何を願うのか』法藏館。
森山幹弘・塩原朝子編(2009)『多言語社会インドネシア : 変わりゆく国語、地方語、外国語の諸相』めこん。
山口しのぶ(2019)「インドネシア、バリ島の寺院におけるシヴァ=ブッダ観念の表出─バリ・ヒンドゥー寺院に見られる仏教的要素を中心として」東洋思想文化(6):61-81.
Hauser-Schäublin, Brigitta. (2004) "" Bali Aga" and Islam: Ethnicity, Ritual Practice,and" Old-Balinese" as an Anthropological Construct." Indonesia 77: 27-55.