チェコスロヴァキアの首都・プラハから北へ60kmほど離れた、当時の人口6000人ほどの小さな街テレジン。1941年から1945年まで収容所の街となり、一挙にその10倍を越す90000人が詰めこまれたのです。公園を囲んで、教会があり、学校があり、レストランや花屋さんやお菓子屋さんがあった美しい街は人であふれ、公園にも道路にもバラックが建てられました。それでも入りきれない人は、建物の前の階段や道端で寝ました。当然、水道もトイレも足りません。建物内にも道端にも、ゴミや汚物があふれました。
「ユダヤ人がユダヤ人だけで安心して暮らせる場所へ送る」というドイツの布告を信じた人々のなかには、シルクハットをかぶり、大きなスーツケースに銀の食器や、レースのテーブルクロスを詰めてきた人もいました。そんな人々は、テレジンの門をくぐり、すべての持ち物を取り上げられたときに自分たちの住むところが決して「安心して暮らす」場所でないことを悟らずにはいられなかったのです。