特別展示室 「知る勇気 伝える努力」
野村路子 (ノンフィクション作家) [Profile]

1937年東京生まれ。59年早稲田大学第一文学部仏文科卒業。
コピーライター、タウン誌編集長などを経て、新聞・雑誌などにエッセイ・ルボルタージュなどを執筆していたが、89年、プラハで、第二次世界大戦時に、テレジン収容所で子どもたちが描いた絵と出合い、その日本では全く知られていなかった事実を伝えようと、在日チェコ大使館、ユダヤ博物館などと交渉、150点の絵のレプリカの永久使用権をいただき、91年、『テレジン収容所の幼い画家たち展』を全国23会場で開催すると同時に、数少ない生還者への取材を始めた。
その後、32年間、展覧会開催とともに、講演や執筆活動を続け、さらに、ホロコーストの事実を伝えるため、国外ではポーランド・チェコを訪ねるツアー、国内では敦賀市・八百津町・福山市などを訪ねるツアーも実施している。
『テレジンの小さな画家たち』(産経児童出版文化賞大賞)。『フリードル先生とテレジンの子どもたち』、『生還者たちの声を聴いて』など著書多数。
2010年より、小学校6年国語教科書(学校図書刊)に『フリードルとテレジンの小さな画家たち』掲載。その教科書で学んでいる学校を中心に、小・中学校での講演も多い。
テレジンの子どもたちの遺した詩を中心に詩作・構成をした、朗読と歌によるコンサート『テレジンもう蝶々はいない』を全国各地で上演。2001年にはプラハ、テレジンでも上演。
2023年3月には、長年続けてきたホロコーストを知る旅のひとつであるイスラエルを訪ねるツアーを再開するなど、「伝える努力」を今も続ける。

「いのち平和そして出会い ~講演&コンサー ト ~『テレジンもう蝶々はいない』」は、こちらから視聴できます。

ビリー・グロアーさんのこと

子どもたちの絵を語るときに、ビリー・グロアーさんは欠かせない存在です。ユダヤ人であり、自らもテレジンの収容者だった当時28歳のビリーさんは、<女の子の家>の世話係として、2年数か月を子どもたちのそばで過ごしました。「お母さんに会いたい」「下着がなくなった、どうしよう?」といろいろな相談をもちかけられたり、泣きつかれたりしたと言います。
孤独、淋しさ、飢え、疲れ、仲良しの子が<東>へと突然連れて行かれ、明日は我が身かもしれないという恐怖……。そんなつらい日々のなかで、絵の教室が子どもたちの心の支えだったことを、ビリーさんはよく知っていました。

私がビリーさんとはじめて会ったのは1990年11月。イスラエルのギバット・ハイムにある博物館「テレジンの家」でした。ビリーさんは、テレジンの解放後、一時はプラハで過ごしましたが、間もなくパレスチナに渡り、イスラエルの建国に参加。9人の孫がいるおじいちゃんになっていました。

「テレジンが解放されたのは1945年5月8日。それは突然でした」とビリーさんは話してくれました。ひどい飢えと、チフスの蔓延で、移送を待つまでもなく亡くなる人が相次ぎ、以前は多くの子どもたちが折り重なるように寝ていた3段ベッドも嘘のようにがらんとしていました。残っていた子どもたちはほとんどが栄養失調か病気で、彼らがまだそこに残っていたのは、送られるはずのアウシュヴィッツがもう機能していなかったからなのです。1945年5月7日、ドイツ無条件降伏で戦争が終わった日まで生き残っていたテレジンの子どもはわずか100人だったのです……と。

「ドイツ軍はテレジンから撤退するときに、たくさんの書類を集めて焼却しようとしました。その焼け残りの山の中から、あの子どもたちの絵を見つけたのです。どうしてドイツ軍の事務室にあったのかは、私にはわかりません。
ただ私にわかっていたのは、絵を描いていたとき、子どもたちが本当に楽しそうに目を輝かせていたこと。その絵を描いた子どもたちのほとんどがもう帰って来ないだろうということでした。私は、その絵と一緒にあった詩の原稿をトランクに詰めました。トランクは倉庫にあったものです。倉庫のなかは宝の山でしたよ。宝石や銀器や毛皮のコート……。みんな私たちユダヤ人から奪ったものです。それを持ち出した人もいました。解放されて家に帰れるといっても、家があるのかどうかもわからないのです。どうやって生活したらよいのか不安ですから、高価なものを持って行こうというのも当然でしょうね。でも、私は、絵を持って帰らねばならないと思いました」
ビリーさんは、絵を入れた大きなトランクふたつを持って60kmも離れたプラハまで歩いて戻り、ユダヤ人協議会に届けたのです。ビリーさんは、その後プラハを離れパレスチナヘ来てしまったので、絵がどうなったかは知りません。

絵を預かったユダヤ人協議会は、戦後処理の忙しさに追われていました。
……トランクが再び開けられるまで10年余り。ある日、地下室で古ぼけたトランクを見つけて開いてみた人がいたのでしょう。なかには、子どもたちの描いた4000枚の絵があり、大半の絵には子どものサインがありました。テレジンヘ送られたユダヤ人の名簿、アウシュヴィッツヘの移送のリスト、生き残った人たちの証言……、ユダヤ人協議会による必死の調査が続いたそうです。

そして、多くの絵に、描いた子の名前、生年月日、アウシュヴィッツヘ送られた年月日がつけられ、その一部が、プラハで公開されました。
「1959年になって、エルサレムでも、あの子どもたちの絵が公開されました。何人もの生き残りの人たちが、自分の絵の前で立ちすくみ、涙を流しました。"よくあの絵が残されていたものだ"と、たくさんの人から言われます。子どもが殺されて、1枚の絵だけが形見という親もいます……」

「ありがとう、ミチコ。あの子たちのためにわざわざ日本から来てくれて」
お話をうかがった後に、そういって私の手を包み込むように握手をしてくれたビリーさんの、あの大きな手の温かさを忘れることができません。

プラハに住んでいたビリー・グロアーさん。1942年、28歳の時にテレジンヘ送られた。

現物展示:

絵を描くことが好きだったビリーさんからは、彼が亡くなるまでカードのやりとりが続きました。明るい色使い、ユーモアあるタッチに彼の人柄を思い出します。《A Happy New Year》と書かれているカード。実際にそれが送られてくるのは、6月や7月。1992年のものには《5754》という数字が。これは、イスラエル暦なのでしょう。英語のほかに《Slastny Novy Rok》とチェコ語があり、その下にはヘブライ語の文字も並んでいます。ビリーさんは、英語、ドイツ語、チェコ語、ヘブライ語、アラビア語が話せるのです。
ほかの生存者の方でも、数ヵ国語が話せる方が多くいました。「学びたくて学んだ言葉ではありません。仕方なく覚えた言葉です。収容所のなかでは、ドイツ語がわからなかったら生きていけなかった。解放されてからイスラエルヘ来たのですが、ここではヘブライ語です。ひとつの言葉で暮らしていけるなんてミチコ、あなたは幸せなのですよ。いくつもの言葉を話しながら、私は何人なのだ?と思うのですよ」