1989年。はじめて子どもたちが描いた絵を見たとき、多くの絵に書かれているサインに心が動きました。その数日前に訪れたアウシュヴィッツの博物館では、たくさんのものがありました。「ここで殺された人の遺品の一部」と書かれていますが、殺された人の名前や顔は見えてこないのです。山ほどある眼鏡、でも、かけていた人は……?小さな赤い靴、ダンスのステップでも踏んだのか、細く長いヒールのついた金色の靴。三つ編みのおさげのまま切り取られた髪……。何を見ても、「多くの犠牲者の遺品」、それが嫌でした。哀しかったのです。
犠牲者すべてに名前も顔も、生きてきた歴史もあっただろうに、それらをすべて消され、多くの犠牲者がいることだけが強調され、一人ひとりが遺品の山の中に埋もれてしまっているように感じられたのです。
それなのに、テレジン収容所の子どもたちの絵には名前がありました。
「あなたたちには名前があるのよ。ドイツ兵が番号で呼ぼうと、豚と罵ろうと、みんなにはお父さんやお母さんが愛情込めてつけてくれた名前があるの。それを書きましょう」。フリードル先生が子どもたちにそう語りかけていたのを、テレジンで、《女の子の家》の世話係をしていたビリーさんはよく覚えているといいます。ビリー・グロアー。彼がテレジンに残された絵を見つけて、プラハに運んだ人なのです。
「まだ上手に書けない子もいてね、フリードルが書いてあげたのもある」
子どもたちが描いた絵画。その調査がはじまったのは、戦争が終わって20年も過ぎてからでした。「絵についての調査をはじめるので、手伝いに来てほしいと言われてね。その頃、わたしはイスラエルのキブツで働いていたのだけれど、特別な許可が出て故国へ行ったのですよ。幸いに、チェコは戦災に遭わなかったので、ユダヤ人に関しての資料が残っていた。おまけに、ナチスは詳細な記録を残していたから、子どもたちの名前がわかれば、消息もわかるかと………。でも、大変な仕事でした。
4000枚の絵を1枚ずつ調べて、あまり上手ではないサインだったり、愛称だけしか書いてなかったり、それを読み取り資料と照合したのです。なにしろ、ほとんどの子は殺されているのですからね。ああ、このとても絵が上手だった子も、この泣き虫だった子も………、殺されてしまったんだなあ、といろいろ思い出されて、仕事の手が進まなかった。でもね、フリードルが、名前を書こうと指導したことがいかに素晴らしいことだったか、それを考えながら仕事をしましたよ。何年もかかったけれど、多くの絵の作者がわかりました。それでも、『作者不明』というのがあります。よく見るとわかると思いますが、それらは未完成の作品です。
次の教室のときに描き上げて名前を書こうと思ったのでしょうね……」
そんなビリーさんの話を聞いていたから、私は日本で展覧会を開くとき、名札を大事にしてきました。難しい読み方をすべて、大使館の方にチェックしていただき、生年月日と、アウシュヴィッツヘ送られた年月日を入れました。そして、オープニングの挨拶をするたびに、こうお話しするのです。
「一部のものを除いて、絵には名札がついています。描いた子どもの名前、生年月日、アウシュヴィッツに送られた……、多くは、その日のうちに殺されたのだろうと思われる、その年月日が記されています。どの絵も、見るあなた方にたくさんのことを語りかけてくると思います。どの絵でも結構です。心に残る絵があったら、それを描いた子どもの名前を呼んであげてください。覚えて帰ってくださぃ」と。