子どもたちが描いた絵との出合いは、まったくの偶然でした。1989年2月。娘が大学を卒業するにあたり、ふたりで旅行へ行こうとしていました。行き先は、当時まだ社会主義国だったポーランドとチェコスロヴァキア。何度も他国に併合された悲しい歴史を持つポーランドでは、アウシュヴィッツを訪れよう、と考えていました。
でも、チェコスロヴァキアの首都プラハは、モーツァルトが愛し、ドヴォルザークやスメタナを生んだ街。私と娘のガイドブックには、美術館や劇場や教会など、ぜひ訪ねたいところにたくさんの丸印がついていました。
私たちは、プラハの旧市街を歩いていました。広い通りや広場には、人・人・人の波。両側のどの建物にも、チェコスロヴァキアの3色の旗と赤旗が飾られています。広場では国歌が流れ、集会が行われていました。「何だかわかんないけど、今日は何か大きな行事があるのよね」と娘が言いました。
後でわかったことですが、その日1989年2月23日は、チェコスロヴァキアの社会主義宣言をした記念日なのでした。それから半年ほど後に、東欧諸国に改革の嵐が吹き荒れ、チェコではビロード革命が起こり国の体制が変わることとなります。私たち親子がいたあの広場での集会は、社会主義国チェコスロヴァキアが祝った、最後の記念式典だったのです。
人混みを避けて私たちは横道に入りました。モルダウ河(その国では、本当はヴルタヴァ河と呼んでいたのですが)に近い道を入ったところが、かつてのユダヤ人街。そこの古めかしい建物の扉が開いていたので、「ドブリデン」と前夜、ガイドブックで覚えたばかりの挨拶を小声でして入りました。
そこに、絵が展示されていました。学校の建物の前に男の子と女の子が並んでいる絵。干し草をいつばいに積んだ馬車の絵。赤や黄の花の上を蝶が舞っている絵。……普通の子どもの日常を描いた絵。ある絵を見るまではそう思っていました。中央に今まさに首を吊られようとしている男がいる。その胸にはダビデの星。そして、上の方には街灯にもたれて立つ男の子……。
「あっ、これは……」。娘と顔を見合わせました。
数日前に訪れていたアウシュヴィッツ。そこで買い求めた本の中にあった数行の文章。「アウシュヴィッツで殺されたのは大人だけではない。たくさんの幼い生命が容赦なく奪われた。才能も花開く前に消された。チェコスロヴァキアのテレジン収容所で絵を描き、詩を書いていた1万5000人の子どもたちも……」。なにげなく眺めていた絵が、まさにその絵だったのです。
その夜、私は博物館で買い求めた薄っぺらなフランス語のパンフレットを、辞書を片手に読みました。窓の外が明るくなるころ、それらの絵がどういう状況で描かれたものかがわかったのです。