フリードルは、1898年オーストリア・ウィーン生まれ。両親はユダヤ人でした。ウィーンの美術工芸学校で学びその才能を認められ、1921年、生まれたばかりの前衛芸術運動の拠点『バウハウス』で学ぶためにドイツヘ移りました。『バウハウス』では、素晴らしい仲間と出会い、絵画だけでなく、彫刻、舞台美術、舞台衣装、テキスタイル、グラフィックデザインなど総合芸術を学び、オ能を発揮しました。卒業後、仲間とともに、活動の場をベルリンに移し、さらに故郷であるウィーンにもアトリエを開きました。彼女が設計から、子どもたちの使う机や椅子、オモチャなど、すべてをデザインしたモンテッソーリ幼稚園は、大きな話題になりました。
……でも、その間に、ドイツの政情は大きく変わりつつあったのです。ヒトラー率いるナチスの台頭。いつの間にか、自由な芸術の都ベルリンはユダヤ人に対する差別や虐待の横行する恐怖の街になっていたのです。そして、ウィーンの街にもナチス信奉者がふえ、同じように……。
仲間たちのなかには、故国を捨て外国へ渡る人もいました。ベルリンの工房も、ウィーンのアトリエも壊されるなど、ユダヤ人であるフリードルに危険が迫っていました。1934年、フリードルはプラハに移りました。プラハでの生活は楽しく、彼女はその美しい街の風景や、窓辺に咲く花、親しくなった隣人たちの絵を何枚も描いています。
しかし、1938年のナチス・ドイツのズデーテン地方併合により、プラハの街でも、ユダヤ人の生活はさまざまな規制を受けるようになりました。子どもたちは学校へ行くことを禁止され、電車やバスに乗ることも、公園やプールに入ることも許されず、ひっそりと暮らしていました。フリードルは、そんな子どもたちを家に招いて、絵を教えました。見つかれば処罰されることです。
彼女の元をドイツ時代の友人たちが訪ねてきたことがありました。苦心して手に入れたパスポートを持ってきたのです。「今ならまだ間に合うわ。安全な国へ逃げて」と言うのです。「貴女の才能を失いたくない」と……。でも、フリードルは断りました。「絵を描くことだけを楽しみにしている子どもたちがいるの。あの子たちをおいて、私だけが逃げるわけにはいかないわ」
1942年。フリードルはテレジンに送られました。
「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないけれど、それでも、楽しかったと思える時間があったとしたら、それは、フリードル先生の絵の教室のときでした」。生き残ったディタもラーヤも、口をそろえてそう語っています。
フリードルは、アートセラピーの勉強もしていました。絵を通じて子どもたちの抑圧された精神状態や不安な感情などからくる内面の問題を読み取り、それに適切な語りかけをすることができたのです。そして、同時に、バウハウス教育をもとにした独特の指導法で、子どもたちの個性を引き出し、その感覚をも開発したのです。子どもたちに絵を描くだけでなく、貼り絵や切り絵、コラージュなどを教え、自由な発想で作品を作らせました。
子どもたちはつかのまの笑顔を見せるようになり、優しい気持ちをとり戻し、すばらしい才能を現すようになりました。でも、それはナチス・ドイツにとっては意味のないこと。子どもたちを労働力としてしか考えていない彼らは、病気になったり衰弱したりした子どもを次々と<東>へ送ります。
そして、1944年10月16日、フリードルも46歳のときに、<東>へと送られたのです。